聴を妾に貸してちょうだい。」
マツノスケはわざと豪快にわらってから、
「やあ、有がとう。今夜で千秋らくになると、わっちは関西でふたを開けやすが、あんたはどうなさる。」
すると彼女の眼が烱々《けいけい》とかがやいた。欲情的に声をふるわせてミサコが云う。
「それはね、マツノスケ。妾はね、あんたに離れてはいられぬし、かたがた大阪に急用があって今夜これから出発するわ。妾、待っていてよ。」
「お後をしたって。」と頭を掻《か》きながらマツノスケは苦笑して云った。奈落から拍子木がさえた音をたてた。
マツノスケに別れると、ミサコはそのまま楽屋口から冷たい街路に出た。
出発半時間前、中央ステイションのプラット・ホームには、ミサコの夫と彼女の女弟子たち、カリタ夫妻が彼女を見送りにきていた。後《おく》ればせに小肥りな女記者がかけつけてきた。
ミサコは、小さなワニ皮の旅行鞄に少時の憂愁をかくして、皮手袋を脱《と》ると見送りの人々と握手をかわした。やがてサイレンが鳴りやむと、夜の急行列車が都会のアーチの門をくぐるように動きだした。
列車が品川を過ぎると、彼女のかたわらに美男のアメリカ人がにこにこしながらやってきた。手品師のウイルキンスであった。ミサコが無愛想に云った。
「ハロー、ウイルキンス。よくやってこられたのね。」
「かけおちしましょう。ミサコさん。」と、彼がなれなれしくこたえた。
太田ミサコの顔が瞬間、蒼褪《あおざ》めたが、この計算を愛する女が事務的に男の愛情をためしてたずねた。
「ウイルキンス。約束のもの持ってきて?」
「五百円、たしかに。」
底本:「吉行エイスケ作品集」文園社
1997(平成9)年7月10日初版発行
1997(平成9)年7月18日第2刷発行
底本の親本:「吉行エイスケ作品集 ※[#ローマ数字2、1−13−22] 飛行機から墜ちるまで」冬樹社
1977(昭和52)年11月30日第1刷発行
※底本中の「!」は全て右斜めに傾いていたが本テキストでは「!」を用いた。
※底本には「吉行エイスケの作品はすべて旧字旧仮名で発表されているが、新字新仮名に改めて刻んだ。このさい次の語句を、平仮名表記に改め、難読文字にルビを付した。『し乍ら→しながら』『亦→また』『尚→なお』『儘→まま』『…の様→…のよう』『…する側→…するかたわら』『流石→さすが』。また×印等は当時の検閲、あるいは著者自身による伏字である。」との注記がある。
入力:霊鷲類子、宮脇叔恵
校正:大野晋
2000年6月13日公開
2009年3月19日修正
青空文庫作成ファイル:
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