わ。」と憤懣《ふんまん》の色をうかべて彼女がこたえた。
 赤い首巻きを締めるように、肥満した男の太い呼吸がばったりやむと、人口的な都会の性格が夥《おびただ》しく牀《ゆか》にふれた。一刻後、太田ミサコはグリーブスな武者わらいをして、ハンド・バッグに一枚の紙片の重さを感じながら支那ホテルの階段に榴弾《りゅうだん》の音をたてて下降した。

     2

 戸外に彼女がでると、萎黄《いおう》病のように燻《くす》んでしめった月が建物の肋骨《ろっこつ》にかかっていた。
 彼女が臘虎《らっこ》の外套に顔をうずめて銀色の夜半の灯のもとを、二、三歩すすまないうちに、金格子の門衛室の扉がひらいて青馬のような近視眼鏡をかけた小肥《こぶとり》なボッブの女が小走りにちかづくと、悪意のあることばで、「やあ、奥さん。あなた身重になるつもり!」
「ああ、あなた探訪記者だわね。」
「深夜のミイラとりだわよ。」
 彼女は女記者のむくんだ肩を美しく手いれされた指でふれて、起重機のそびえた黄色い空を見あげながら、
「ちょいと。」
「なーに。」
「これ少しよ。」
「まあ、妾に。でもこれじゃ駄目だわ。」
 太田ミサコはとっさに記者の近視眼のめがねのしたで、ずるそうな意志が図解されているのをみとめた。
「あなた、いらないの。」と、強く云いきるとふたたび建物の影にそって歩きだした。
 狼狽《ろうばい》した女記者の太い拳が彼女の眼前につきだされた。夜半の都会が同盟|罷業《ひぎょう》のような閑寂さを感じさせた。
「あなたいらないの。」
「いただくわ。」
「ではお願いがあるわ。あなた妾を明朝たずねてきていただきたいの。妾の考えではあなた中々見こみがあるわ。」
 困憊《こんぱい》した女記者を尻目にかけて、彼女は一枚の名刺を手渡すと、既に通りかかった車にのると、疲労したからだをクッションに埋めて都会の大桟橋を右に折れた。
「畜生!これっぽっしの目腐れ金で妾をろうらくして、売女奴《ばいため》!」
[#ここから2字下げ、横書き、罫囲み]
仏国ポール商会代理店 太田ミサコ 日比谷街 36
[#ここで字下げ終わり]
と、記された花模様の名刺を太い手首に丸めこむと、かの女は豚のように空中に跳ねた。

     3

 翌朝、太田ミサコは支那ホテルからの電話でめざめた。
 肥大した男の恋愛のつづきを受理する女のように頑健な裸《あらわ》な腕を寝床からさしだすと、受話器を整形された小さな耳にあてた。「あんたはミサコさんかね。」と、相手の男が云った。われ鐘のような濁った声が彼女に黒奴《ニグロ》のようなジャマン・チーズの腐った臭のする厚い唇を思い出させた。
「妾、太田ミサコですわ。」と、彼女がこたえた。すると男のエロチックな天性が哀願的に、「わしは昨夜中あんたのことを思いつづけると眠ることができなかった。いまでもあんたの呼吸がわしの耳に鳴りつづけるのだ。するとわしはドイツの軍艦のようなあんたのからだを思う。」「ああ、もし、もし。」「わしは気がくるってホテルの高層から飛びおりようと思った。」
「御用は?」
 電話の男がどもって号《さけ》んだ。
「あんたはわしのことをどう思っていてくれる。」
「妾、あなた様をおきらい申しておりますわ。」と、かの女は冷やかにこたえると、そのまま沈黙して受話器を耳から離さなかった。すると牀《ゆか》をける足音と、しばらくしてもの凄い音響が電流をつたって彼女に勇気をあたえた。
 彼女は寝床に起きあがると中年女の壮烈な教練を始めた。窓のカーテンがひらいて眼下にヒビヤ・パークと警視庁の鉄筋の骨組が朝の太陽のもとに赤光をうけて眼ざめた。女の両脚のように緑色の電車路が横たわって、そのうえを労働者の溢れた満員の割引電車が通り過ぎた。サラリーメンの洪水のために死骸のような建物の堰《せき》が破られて、空にそびえる高楼の窓が花のようにひらくと、女事務員の青と赤の色彩が花粉の媒介の役目をした。
 前門の経済通報社の万事相談室には早朝から夥《おびただ》しい人がつめかけていた。タイプライターと、夕刊新聞のタクシーと、自転車で疾走する給仕の金ボタンと、江東一帯の工場地から聞える仕事始めのサイレンの音響と人物の交錯のなかを、太田ミサコは小肥なボッブの昨夜の女記者の太い脚がアスハルトの道路をふんでやってくるのを認めた。
 部屋のアザミの造花のおかれた卓子に、ミサコと対して女記者は巨木のような脚をくむと、すぱりすぱりと朝日の紙巻タバコの煙を吐きだしながら、
「お早うございます。マダム・ミサ。妾は中央ステイションでおりたのよ。あなた達の悪癖には妾顔まけして了ったわ。」
「妾のお願いと云うのはね。」
「ところがマダム、いくら流行病とは云いながら彼《あ》のアマは朝の市街を厚化粧であるいているんだ!」
「そのくらいで
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