、喜悦をお伝えになったのです。部屋の壁には北斎の絵が、美しい額縁に入れて架かっていました。
 翌日、ロダンさんの彫刻のモデル台に妾は立たされました。ロダンさんは妾の裸体をお求めになったのですが、妾はウェイスト・クロスだけはとることは出来ませんでした。ロダンさんは、お老年《としより》のせいもあったのでしょうが、エロチックってことを少しも恐れないようでした。それから妾のポーズをお作りになって、製作台にお立ちになったロダンさんは人格の変った方のように、妾には感じられるのでした。ロダンさんの厳粛な意欲の中で妾は自分の肉体の秘密も感受性もすべてを知られてしまったような恐しい気持になったのです。まるでロダンさんは、妾の肉体に神秘な思想を求める哲学者のように、殆《ほとん》ど狂気に近い熱心さで、妾から眼をお放しにならないのです。妾は抵抗することの出来ない程、精神に疲労をうけて、偶像のようにモデル台に立っていたのですが、それから間もなく気を失ってしまいました。
 その翌日ジョージ・佐野は、妾がアウギュスト・ロダン氏のアトリエへ行くことに反対しました。併しいつもの時間になって、オテル・ド・※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ロンから車がゲエテ街にやってくると、妾は愛人の側から離れて、何者かに魅せられたように車の人になってしまったのです。オテル・ド・※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ロンの鉄門が見え出すと妾は佐野の亢奮し、やつれた顔が車窓に映るような気がして、慌てて車内の空隙《くうげき》に現れた心影を妾は払いました。
 妾がアトリエに這入ってゆくと、ロダンさんは眼を血走らせて、部屋を乱暴に歩いていらっしゃいました。そして、妾は製作台の上に削られた大理石の女の肢体の置かれてあるのに気が付いたのですが、妾にはそれが頑健な小猫のような肉欲的な女に思われたのです。だが、その瞬間に、妾はそれが昨日妾が気を失ったときの肉体のポーズであることに気が付きました。ロダンさんは妾を見ると、子供のように嬉しそうな顔をして、すっかり落着いて、妾の用意の出来るのを待っていらっしゃるのです。妾が昨日のようにモデル台に立つと、ロダンさんは、今日の妾の姿態が大変お気に入ったようでした。それから夢中で製作台の削られた大理石の女の肢体を凝視していらっしゃるのです。まるで彫像に妾の精神を映そうとする錬金術師のように熱中していらっしゃったのが、突然、歓喜の声をあげて妾に仰有ったのです。
「愛する|小さな花子《プチト・アナコ》。少し貴女に見て貰いたいものがあるのだ。」
 そう仰有《おっしゃ》ると、ロダンさんは別室から、等身大の彫像を奇蹟的な偉大な力で、妾の前に引摺《ひきず》っていらっしゃったのです。妾はその彫像を見ると、妾に何ものかが唯心的な理解力を生んだのです。妾はロダンさんの芸術を微《ひそ》かながら、妾の心の奥底に感じることが出来ると同時に、この老いた彫刻家に妾は自分の心を与えることが出来たのです。ロダンさんは希望に輝いて妾の肉体に表徴される内部的な動きを描き出したのです。妾は眼の前に空虚な袖の垂れている寝巻に包まれた巨大な人間の像を見たのです。彫刻の寝巻からあらわれた裸《あらわ》な胸部の女性らしい形態、そして頭部に於ける肉の強調、醜いが人を魅する悪魔的な眼付、何物かを触感しようとする肉感的な唇――男性の夜半に眼覚めて攪乱《かくらん》されて眠れず突然現れた思想を追求しようとするいたましい人間の姿、この激情的な、感激的な、空想的な、偉大な彫刻の中に、ロダンさんが枯れて自己となっていることを、妾は知ったのです。妾は、憂鬱なロダンさんを知る事が出来たのです。一つの偉大な芸術家が無智な妾の魂を抜去った強大な力を、妾は感ずることが出来たのです。
 これが寝巻姿のバルザックの像でした。――
 ロダンさんは中年時代、シャトウ・チェリイから出て来た女弟子のカミイユ・クロオデル嬢との恋愛の破綻《はたん》によって、思索上にもロダンさんの生理学にも余程の変化があったのだそうです。それは製作の上にも現れて、一八九○年ゾラを会長とした文芸家協会からオノレ・ド・バルザック像の依頼を引受けると、当時バルザックにひどく心酔していらしたロダンさんは、バルザックの裡に二つの人格を認識すると同時に、ロダンさん自身にもバルザックの作品「ラ・セラフイタス」を通じて、心霊界の象徴的な思想があったのです。ロダンさんは、バルザック像にオウギュスト・ロダンを表現しようとなすったのです。ロダンさんの驚嘆すべき精力を傾けたバルザック像は、一八九八年前後、八箇年の努力によってサロンに出品されたのです。バルザック像は、最初着衣より裸体像に、そして再びバルザックの肉体を包んだのが、寝巻だったのです。その寝巻姿のバルザック像がサロンに出品されると世論は沸騰して、ロダン後援会の人々でさえ呆然としてしまったのだそうです。人々はロダンの精神状態を疑い、モンマルトルの寄席では喜劇にまでこれを使用し、ロダンを揶揄《やゆ》したのです。文芸家協会は作品の受取を拒否し、サロンはその撤回をロダンさんに迫ったのですが、ロダンさんは沈黙して自分の意見を発表することはなさらなかったのです。こうして寝巻姿のバルザック像は完成と共に、ロダンさんの部屋でロダンさんの自己となったのです。そして、芸術の単純化された姿は、ロダンさんの生命となったのです――。
 ロダンさんはモデル台で、彫刻の裡に潜む自然の力に打ち負かされて偶像のように立っている妾に近づいていらっしゃると、妾のウェイスト・クロスをおとりになったのです。そして妾は、それを拒否する理由がなかったのです。妾の人格はロダンさんの偉大な人格の力のなかに犇《ひし》と棲《す》んだのです。
 そして、その時ロダンさんは妾に仰有ったのです。
「愛《あい》する花子《アナコ》。貴女はわしの意中を理解されたようだ。このバルザック像であるが、わしはわしの生命の影が欲しいのだ。|小さい花子《プチト・アナコ》。わしは貴女を愛する。貴女によって、わしはわしの生命の影を作りたいと思うのだ!」

     モナコの悲劇

 ジョージ・佐野に、妾の内部的な魂の推移は分かる筈はなかったのです。それから妾はオテ・ド[#「オテ・ド」はママ]・※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ロンに通うことを、妾の一生の価値ある仕事として、云いしれぬ喜びを持つようになりました。
 いまや妾は、理智的な女性だったのです。併し、妾の理智は、ロダンさんの芸術の中に移り棲んだのです。こうしたデリケエトな女の心が、大陸生れの佐野に感じることは不可能です。彼は魂の脱穀《だっこく》となった妾の身体《からだ》を抱いて、捕えがたい悪夢に陥って行きました。
 彼は妾の沈黙の裡《うち》に、悪い幻影を掬《すく》って、それを追求したのです。そのうち妾達の曲芸団は再び旅興行へ出ることになって、妾達がモンテ・カルロに出発する前日、妾はペル・※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ュウ村のロダンさんの、お家に招かれました。その間、幾個《いくつ》かの花子の首の試作品がオテル・ド・※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ロンのアトリエに出来つつあったのでした。
 ロダンさんに連れられた妾は、アンヴリイドの停車場から数十分で、ムウドン停車場に下りました。駅には下男とロダンさんの古い馬車が妾達を待っていました。そこから、だらだら坂になっているアカシア並木の赭土《あかつち》の途を揺られながら、ペル・※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ュウ村の木立の上に風車の廻っているロダンさんの粗末なお宅につくと、薔薇園の木戸口に肉体の彫刻的に締った、銀髪のロダン夫人が立って、妾を迎えてくださいました。
 晩餐後、妾達は静かに身上談《みのうえばなし》などをして、夜を更かしたのです。ロダン夫人のロオズさんは、妾の持っていた舞扇の影に、さも東洋の神秘でも隠されているように、いろいろと日本の古代の物語などを妾から聞いて、異郷の地を想像していらっしゃったようです。夫人はほんとに沈着な立派な方でした。夜が更けてロダンさんは一匹の番犬を連れて、離れの二階の寝室に妾を案内していらして、犬と妾を部屋に置くと、母屋の方に下りていらっしゃいました。
 妾は一人になると、ソファに埋れて、昨今佐野と妾との内部に萌《きざ》した不和について考えると憂鬱になるのでした。もしかすると佐野は深い臆測によって、極端な誤解をしているのではないであろうか、妾は思わず妾の眼の前に、暗い未来が流れているような気持になるのです。妾の番犬は妙に落着きを失って、部屋の隅から隅を嗅いで廻っていました。妾は一処《ひとつところ》にじっとしているとひどく不安に襲われるものですから、立上ると、まるで発作を起した女のように、部屋の中をぐるぐると廻りました。そのうちに、妾は急に何ものかに封じられているような可笑しさを覚えて、寝床に顔を埋めて笑い転げました。だが、再び妾は妾の声に怯えて立上ると、狂気のように衣服を脱いで裸体になると、姿見の前で妾の肉体を映して見ました。妾はロダンさんの鑑賞力を吟味するような気持で、優美に作られた妾の小さな胸、強いカーブを持った臀《しり》、欲求に満ちた東洋女の顔にみとれながら恍惚となっていたのです。と、突然、妾の番犬が、妾が戦慄《せんりつ》するような呻《うな》り声を出して、外部の暗《やみ》に向って吠出したのです。その時妾はふと、夜陰の無花果《いちじく》の木の下に潜む、黒衣の人間の険悪な顔を姿見に認めて、恐ろしい悲鳴をあげました。すると、時を同じうして、寝室の扉が音もなく開いて、ロダンさんが幽霊のように部屋に現れたのです。妾は黒衣の人間がジョージ・佐野であることが解りました。燭台《しょくだい》の青い灯に浮いた鏡の中の黒衣の人間の顔が瞬間消えて見えなくなりました。
 翌日、近東行きの列車が巴里を出発する間際になって、ジョージ・佐野は死人のように、蒼ざめて一行に加わりました。佐野は始終|俯《うつ》むきがちで、モンテカルロに着くまで殆ど誰とも言葉を交しませんでした。汽車がニースの駅を出て国境に近づくと、一行は網棚から荷物を下して、身支度をととのえましたが、彼はまるで精神のない人間のように、身動きもしないで、俯むいたまま一点を見詰めていました。やがて妾達旅芸人の一行は、ギリシヤ女の水泳する腕にも似たモナコの町に着きました。妾は黄金の粉を溶かしたようなリグリヤ海を見つめているうちに、どうやら妾達の運命が逃げ腰でいるような気がしたのです。美しい女の爪のような白帆が海上を走っていました。妾は佐野の側に行って、彼の腕をとりました。すると、それまで黙々としていた彼の顔が、危険な形相に変って、邪慳《じゃけん》に妾の腕を振払うと、モナコの花開く寺院の饗宴場に向って行ってしまいました。妾はそうした男心がなさけなくなりました。
 その日の夕方、雑然と旅衣裳の散らばってる妾達のユーロップ・ホテルの居間の電鈴がさびた音を立てました。スイス・ホテルから電話でロダンさんが妾の後を追ってモナコにいらっしゃったことが分りました。その間妾は絶え間もなく、心の不安に襲われていました。ルーレットのモナコ、悪徳の町、三十九の機会《チャンス》の町、妾の運命、そんなとりとめのない頽廃《たいはい》した意思が妾を支配していたのです。妾はロダンさんと、花匂うモナコの浜に沿って、心の悲劇を象徴するような大寺院の賭博場《カジノ》に向って、馬車を走らせました。モナコの王国、円い月のかかった二つの塔の前で、黒と紅と金に装い凝らしたモンテ・カルロの巡査が、ユーロップの草花の前で澄まして直立していました。この専制君主的な儀礼の門を潜って、ロダンさんが事務所で入場券をお求めになると、妾達はこの悪徳による王国の財政の基礎の中に這入って行ったのです。
 ロダンさんは心持ち若返っていらっしゃるようでした。妾は未来の運を、ロダンさんの頑健な腕と異常な人格にお委《まか》せしました。タキシード姿の役人が、奥のホールの奏楽場に妾
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