女とアバッシュなマルセーユ男でワルツを始めました。ルーマニアの士官がネグロの楽隊に剣を腰から抜いて長靴を鳴らして見せました。そこからルーマニアの士官と、スペイン女のあの意気で猥雑《わいざつ》なタンゴが始まると、人々は腰を高く振って、歓声をあげるのでした。
燕尾《えんび》服をつけた給仕が、銀盆に一枚の名刺を置いて、ものものしく妾達の卓子の前で、黒い尾を折りました。支配人が妾に面会人を告げたのですが、妾は機械的に首を横にふりました。だが、妾の感傷の夢もそれと同時に醒《さ》めたのです。支配人はアウギュスト・ロダンの名刺を妾に見せると、偉大な芸術家であるから、是非私に面会するようにと云うのです。妾は佐野の顔色をうかがうと、彼は首を縦に振って神経的な顔に微笑をして呉れましたので、妾は立上ると踊の場面を抜けて、給仕の後から黒塗りの日本の履物の音を立てたのです。妾は案内された部屋に、レジオン・ド・ヌウルの勲一等の赤い略章をつけた肥大した肉体の恰好《かっこう》の好い一人の老人を見出すのでした。銀で染めた髪と、眉の間に鼻眼鏡をかけたアウギュスト・ロダン氏は、妾の小さい手を芸術家らしい熱情をもってとると、不思議に透徹した眼光が妾を凝視しているのです。妾はモンマルトルの地獄のカバレの我父《モンペール》フレデリック老人を思い出したほどです。併しロダンさんは、妾に優しく椅子をすすめると、自分が妾、東洋の女優の美に対する興味の異状であること、マルセーユの石山のノートルダム寺院の尖塔《せんとう》の黄金像にもまして、自分は、日本女優花子の美は自分にとって尊いなどと、お世辞を仰有《おっしゃ》るのです。妾は街角に灯された石油ランプの青い灯に東洋が映るやうな気がしました。どうか、自分の彫刻のモデルになって呉れるようにと、ロダンさんは仰有ったのです。妾達の曲芸団はマルセーユの興行を打揚げると、スペインのバルセロナの街に小屋を下しました。妾は無智な女で、芸術家に対する理解なんてなかったので、ロダンさんのことはすっかり忘れていました。それに妾はジョージ・佐野を愛していたので、他のことは考える暇がなかったのでした。妾達はラムブルデル・セントロの椰子《やし》の大通りで、狂気のように接吻しました。コロンブスの銅像の前で、陽気に恋を語りました。カルメンの兵士も、意気な紳士達も、真赤な帽子を斜《はす》かいに被《かぶ》った闘牛士も目には映りませんでした。妾達はスペイン人の巻舌の中で、真赤な衣裳の影で、恋愛のために歓声をあげたのです。この時代が妾にとって最も楽しかった時代で、佐野に対する妾の愛着は南欧の情熱に反映して、ジプシー女のように燃えさかったのです。ああ、妾は佐野を愛していました。佐野も妾のために夢中だったのです。妾達はショコラ酒を飲んで、金盞花《きんせんか》の花と共に寝床に埋れました。
それはスペインの十月の最後の金曜日でした。妾は佐野の腕に抱かれてラス・コルテス通のアラビア風の建物に、赤と黄の旗の飜《ひるがえ》る闘牛場に這入って行きました。場内は気が狂ったように男女が歓声をあげていました。佐野はアラゴン人の物売りから冷果を買って妾の乾いた唇を潤しながら云うのでした。
「|小さい花子《プチト・アナコ》。俺はお前を愛している。お前なしには生きて行かれない!」
妾は彼の厚い唇に敏捷《びんしょう》に噛みつきながら、
「ジョージ、妾の愛の凡《すべ》てを投げ出しても惜しくない。恋の狢《むじな》になるまでは。」
と、妾は号《さけ》ぶのでした。
鐘がバルセロナの古い歴史を呼びさますようにえんえんと鳴る。オーケストラが大進軍の曲を始めた。バルセロナの市長夫妻が、古風なスペイン服で高い桟敷《さじき》につくと、金と紅で美装した闘牛士の群が騎馬で出て来て、司会者の前で昔ながらの武士的な挨拶をするのです。すると、司会者は黄金色と紅色で飾られた闘牛の魂とも云うべき鍵を、闘牛士に向って投げます。すると闘牛士の大きな帽子が見事にそれを受けとめて、その鍵で中の潜んでいる扉を開くと、暗い場所から嵐のように闘牛が広々とした円舞場に踊り出るのです。それに向って槍を手にした騎馬の闘士が焔《ほのお》のような空気の中で乱舞するのです。と、忽《たちま》ち血みどろになって大牛の死骸が投げ出され、騎士と牛の闘争が終ると、左手に赤い蔽布《ひふ》をひるがえし、右手に尖剣《せんけん》をきらめかした闘牛士が徒歩で牛と立向い、古武士的な闘牛士の動作を観衆は讚美熱狂するのです。私は残虐な血を見て、喜びがスペインの奔流のような歓呼の中で亢奮していました。佐野の私の首を抱いた腕がだんだん冷たくなるような気がしながら、眼前を尖光のように流れる闘牛士の槍先が牛の骨に数本の尖創を作って、巨大な口から粘った血液がどろどろと流れるのを、瞬き
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