バルザックの寝巻姿
吉行エイスケ
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)倫敦《ロンドン》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|小さい花子《プチト・アナコ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]
−−
花子の首
一九二四年の倫敦《ロンドン》の冬は陰気であった。私はユーストンの地下鉄の乗換場附近にある玄関に、日章旗を交錯した日本料理店胡月の卓子《テーブル》で、外交官の松岡、画家の山中、トンテム・ハム・コートの伊太利《イタリー》料理店の主人と暗い東洋風の部屋で、日本食の晩餐《ばんさん》後お互に深い沈黙に陥っていた。外は倫敦の深い霧が立ちこめて、青い幻灯の街路を、外套の襟に顔をうずめて各国の女が相変らず男から男に身を売って、凍った地面を高い踵《かかと》で音楽のように敲《たた》いて行ったり来たりしていた。支那人の給仕人が丸太作りの灰色の窓を閉《とざ》すと、客のない閑散とした部屋々々は妾《わたし》達と胡月の女将《おかみ》である四十前後の小柄な日本婦人花子とが囲炉裏《いろり》をかこんでいた。皆等しく注意を卓子の塗膳にのせられた粘土の彫刻に向けるのであった。
その彫刻は人間の恐怖が異常な人間の脳裡によって刻まれた、アウギュスト・ロダンの作品「|小さい花子《プチト・アナコ》」の死の首であった。トンテム・ハム・コートの伊太利人は彫刻の美に昔から物馴れた眼をそむけて、醜悪なものの前で色を失っていた。外交官の松岡は頑丈な顔を曇らせると眼を伏せてしまった。画家の山中はものに憑《つ》かれたように身動きもしなかった。その時ふと私は、老いた花子の顔の孤独の皺《しわ》を伝う幾条かの銀色の涙を見た。私の心では、彼女の影にその神秘な過去が深まってゆくのを感ずるのであった。
突然、ユーストンの街路の銀鈴の響が尾をひいて、馬の踵《ひずめ》の音が静寂な空気の中に運命的な号《さけ》びをたてた。と、同時に一台の幌馬車が胡月の前でとまると、再びもとの静寂が灰色の部屋に重々しく沈んだ。私達が思わず立上ると、同時に花子のやつれた姿がよろよろと死の首で辛《かろ》うじてささえられた。その瞬間幽霊のように扉を排して、一人の日本人の旅人が、この東洋風の祭壇のように怪奇な部屋に這入ると、扉に背をもたせて、彼の眼前に小さくうずくまった花子を凝視した。私達は、この突然の闖入者《ちんにゅうしゃ》の濃い髯《ひげ》でかくれた、中年の苦悩に刻まれた古銅色の顔、霜枯れた衣服の下で凍った靴に、死人のような膚《はだ》が覗《のぞ》いているのを見た。それと同時に、私達は、花子の絶望的な呻《うめ》きが彼女の唇から洩れるのを聞いた。すると、闖入者の顔には、記憶から記憶を一瞬に過ぎる深刻な影が走った。そして、それに不気味な笑いが伴うのであった。私は思わず背後《うしろ》の花子を振返ると、恐怖の号びをたてて慄然《りつぜん》としてしまった。その花子の顔こそアウギュスト・ロダンの刻んだ「小さい花子」の死の首なのであった。
併《しか》し、次の情景が私達を更に愕《おどろ》かした。不意の闖入者と花子とが緊《ひし》と抱き締めて、ものも云わずに黒い地面にうずくまったからである。
|小さい花子《プチト・アナコ》の話
ロダンさんは、一九○六年マルセーユに、カムボジヤの触妓《ふぎ》の素描《デッサン》をしにやってきたのです。当時私は、当市で開催されていた、植民地博覧会に、東洋曲芸団の花形として出演していました。観客は私のことをプチトアナコと云って人気者だったのです。ロダンさんはコート・ダジュールの華美なノアイユ旅館から、度々妾のお芝居を見にいらっしゃったのだそうです。妾達が最初におあいしたのは、カバレット・トアズンドルの舞踊会でした。妾は支配人と一座のジョージ・佐野(妾はこのアメリカ生れの日本人を愛していたのです。)に連れられて、歌劇の女がカカオを喫しているフランスの香のなかに哀愁的な東洋女の花を咲かしたのです。カバレット・トアズンドルの舞台では、ターバンを巻いた印度人が、細腰のヒンズー女を抱いて、宗教的な怪奇な踊りを舞っていました。妾は、皮膚の色|褪《あ》せた波斯《ペルシャ》族、半黒黒焼の馬来《マレー》人、衰微した安南の舞姫の裡《うち》にあって、日露戦争役の小さい誇を、桜の花の咲いた日本の衣服に輝かせていました。
妾は青い窓から、マルセーユ岸壁の遙かに淡く浮き出た神秘なシャトウ・ド・ディフの牢獄の島を眺めているうちに、故国の姉を憶い出して感傷的になっていました。咏嘆《えいたん》的な音楽が奏でられ、スカートの長いフランス
次へ
全8ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
吉行 エイスケ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング