していらっしゃったのが、突然、歓喜の声をあげて妾に仰有ったのです。
「愛する|小さな花子《プチト・アナコ》。少し貴女に見て貰いたいものがあるのだ。」
 そう仰有《おっしゃ》ると、ロダンさんは別室から、等身大の彫像を奇蹟的な偉大な力で、妾の前に引摺《ひきず》っていらっしゃったのです。妾はその彫像を見ると、妾に何ものかが唯心的な理解力を生んだのです。妾はロダンさんの芸術を微《ひそ》かながら、妾の心の奥底に感じることが出来ると同時に、この老いた彫刻家に妾は自分の心を与えることが出来たのです。ロダンさんは希望に輝いて妾の肉体に表徴される内部的な動きを描き出したのです。妾は眼の前に空虚な袖の垂れている寝巻に包まれた巨大な人間の像を見たのです。彫刻の寝巻からあらわれた裸《あらわ》な胸部の女性らしい形態、そして頭部に於ける肉の強調、醜いが人を魅する悪魔的な眼付、何物かを触感しようとする肉感的な唇――男性の夜半に眼覚めて攪乱《かくらん》されて眠れず突然現れた思想を追求しようとするいたましい人間の姿、この激情的な、感激的な、空想的な、偉大な彫刻の中に、ロダンさんが枯れて自己となっていることを、妾は知ったのです。妾は、憂鬱なロダンさんを知る事が出来たのです。一つの偉大な芸術家が無智な妾の魂を抜去った強大な力を、妾は感ずることが出来たのです。
 これが寝巻姿のバルザックの像でした。――
 ロダンさんは中年時代、シャトウ・チェリイから出て来た女弟子のカミイユ・クロオデル嬢との恋愛の破綻《はたん》によって、思索上にもロダンさんの生理学にも余程の変化があったのだそうです。それは製作の上にも現れて、一八九○年ゾラを会長とした文芸家協会からオノレ・ド・バルザック像の依頼を引受けると、当時バルザックにひどく心酔していらしたロダンさんは、バルザックの裡に二つの人格を認識すると同時に、ロダンさん自身にもバルザックの作品「ラ・セラフイタス」を通じて、心霊界の象徴的な思想があったのです。ロダンさんは、バルザック像にオウギュスト・ロダンを表現しようとなすったのです。ロダンさんの驚嘆すべき精力を傾けたバルザック像は、一八九八年前後、八箇年の努力によってサロンに出品されたのです。バルザック像は、最初着衣より裸体像に、そして再びバルザックの肉体を包んだのが、寝巻だったのです。その寝巻姿のバルザック像がサロンに出品されると世論は沸騰して、ロダン後援会の人々でさえ呆然としてしまったのだそうです。人々はロダンの精神状態を疑い、モンマルトルの寄席では喜劇にまでこれを使用し、ロダンを揶揄《やゆ》したのです。文芸家協会は作品の受取を拒否し、サロンはその撤回をロダンさんに迫ったのですが、ロダンさんは沈黙して自分の意見を発表することはなさらなかったのです。こうして寝巻姿のバルザック像は完成と共に、ロダンさんの部屋でロダンさんの自己となったのです。そして、芸術の単純化された姿は、ロダンさんの生命となったのです――。
 ロダンさんはモデル台で、彫刻の裡に潜む自然の力に打ち負かされて偶像のように立っている妾に近づいていらっしゃると、妾のウェイスト・クロスをおとりになったのです。そして妾は、それを拒否する理由がなかったのです。妾の人格はロダンさんの偉大な人格の力のなかに犇《ひし》と棲《す》んだのです。
 そして、その時ロダンさんは妾に仰有ったのです。
「愛《あい》する花子《アナコ》。貴女はわしの意中を理解されたようだ。このバルザック像であるが、わしはわしの生命の影が欲しいのだ。|小さい花子《プチト・アナコ》。わしは貴女を愛する。貴女によって、わしはわしの生命の影を作りたいと思うのだ!」

     モナコの悲劇

 ジョージ・佐野に、妾の内部的な魂の推移は分かる筈はなかったのです。それから妾はオテ・ド[#「オテ・ド」はママ]・※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ロンに通うことを、妾の一生の価値ある仕事として、云いしれぬ喜びを持つようになりました。
 いまや妾は、理智的な女性だったのです。併し、妾の理智は、ロダンさんの芸術の中に移り棲んだのです。こうしたデリケエトな女の心が、大陸生れの佐野に感じることは不可能です。彼は魂の脱穀《だっこく》となった妾の身体《からだ》を抱いて、捕えがたい悪夢に陥って行きました。
 彼は妾の沈黙の裡《うち》に、悪い幻影を掬《すく》って、それを追求したのです。そのうち妾達の曲芸団は再び旅興行へ出ることになって、妾達がモンテ・カルロに出発する前日、妾はペル・※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ュウ村のロダンさんの、お家に招かれました。その間、幾個《いくつ》かの花子の首の試作品がオテル・ド・※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ロンのアトリエに出来つつあったのでした。
 ロダ
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