家が黒眼鏡に面を俯せていた。しかし麗屋《れいおく》の市街にもかかわらず内容の空虚は殆んど収拾することのできない傷手《いたで》を市民にあたえていた。
 数日前、私は弁天町の金銀細工の街をマリとあるいていた。マリは賛沢品の商品窓を感ずると突然競馬馬のように駈けだすのであった。ソウペイ・シルク店ではアル・ヘンティナの踊着《おどりぎ》のようなイヴニングを買約すると、マリが私に言った。
「おい此《この》ドレスなあ。黄に買わして喜ばしてやるんだ。」
「マリ、黄はお前と夫婦になりたいと云ったぞ。」
「毎夜おれが酔って、いびきかいてるうちになあ、彼奴《あいつ》そんな真似をしているんだよ。」
「よせ、冗談は。黄は子供の頃京城で結婚した女と別れて晴れてお前と夫婦になりたいと真剣だったぞ。」
「よし。こん夜は彼奴の向うずねを蹴ってやる。」とマリは馬のような口をひらいた。
 ミミ母娘《おやこ》美容院では、パーマネント・ウェーブの電流が蜘蛛《くも》の手のように空中にひらいて小柄なスイス公使夫人の黒い髪に巻きついていた。私達は再び丸善薬品本店まで引返して怪しげな英語の名前を云って買物をすると、本町のニューグランド・ホテルの方へあるいて行った。埠頭に碇泊《ていはく》している船舶のマストにセイラーが双眼鏡をもってよじ登っていた。
「おい、マリ、山下へのみにゆかないか。ただし俺はカイン・ゲルトだ。」
「よせ、やあ。剃刀《かみそり》を買おうよ。」
「大丸谷のチャブ屋女と間違えられるぞ。」
「ちぇ! 酔ってかいほうさしてやるぞ。こうみえてもなあ、おれは天界ホテルの令嬢マリよ。」
「へん、シンガポールから迎えのこぬうちにくたばっちまえ。」
 云いおわらぬうちに毛皮の外套から白い手がでると、私の横顔をたたいて一目散に公園横町から支那街さして駈けだした。山下町の支那語韻の街まで彼女を追跡すると支那劇場の喧噪《けんそう》な音楽の前でマリは東洋《オンアン》族を驚かすような音を立てて倒れると、地上を寝床にして唇から泡を吹きながらタヌキ寝人を始めた。支那のフオックス・トロットが劇場の地下室の踊場から聞えてきた。此界隈《このかいわい》はもと孫逸仙《そんいっせん》が亡命中の隠れ場所であった。
 私が息をきらしてマリに××りになると、彼女の額に接吻して言った。
「マリ。お前乱暴してはよくないぞ。」
 すると、彼女はずるそう
前へ 次へ
全5ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
吉行 エイスケ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング