なわち精神的発展を遂げる本能が人間にそなわっている。ところが人間には知情意という三方面の精神作用があるがために、その知的方面が発展してきたところに、あらゆる学術が興っている次第である。自然科学、哲学、すべての学術である。学術は真理をあきらかにすることを目的としている。理想は真理の全体を闡明《せんめい》することである。情の満足は美の全体を表わすことで、至美すなわち絶対美に到達するにあらざればとうてい満足することはできない。そこに芸術が起っている。芸術の目的は美の理想を実現するにある。意は善の実行をもって目的とするので、したがって道徳的行為の関するところで、最高善または至善というのが、その終極の目的である。知情意三方面とも、いずれも理想、目的がある。知は真をもって理想とし、情は美をもって理想とし、意は善をもって理想としている。しかし真善美の理想は終極するところ一つの理想すなわち人生終極の理想で Sollen の因って生ずるところである。この究竟の目的たる大理想は、実在を説明原理として見ないでこれを前途に擲《な》げ出して人間行動の標的としたときに、構成されるので、彼と此とは畢竟一つのものと見るべきである。このことについてはかつて『哲学雑誌』にある程度までは論じておいたつもりである。
四 道徳論
道徳は前に述べたかの知能欲によって起るもので、その本源は生得的である。しかしもとより諸種の経験教養等によって発展を促されることはもちろんである。知能欲によって発生してきたところの道徳的要求は畢竟人格の完成にあることはいうまでもないが、人格完成は道を体現するによって可能となるのである。道はロゴスである。道は無形のもので、形而上的である。永遠無窮でしかして絶対的である。この永遠無窮の道を体現すると然らざるとによって、聖凡の差異が生じてくるのである。聖人の人格の永久価値を失わないというのは、永遠不滅の道を体現するからである。道はすなわち理想である。人間は理想を実現して進むのであるが、完全にその理想を実現しうるということは、なかなか容易でないけれど、ある人格者は極めて稀なる場合であるけれどもほとんどそれを完全に実現して絶対無限の意識状態に到達したのである。それは孔子だの、仏陀だの、クリストだの、ソークラテースだの、そういう後世に模範を垂れた古今の聖人である。聖人といえどもその人格が絶対的に完全なりや否や、なお研究の余地があるようである。けれども、比較的によく道を体現し、人格を完成したものとして、長く後世に模範を垂れたものというべきである。この観点からいえば、孔子だの、仏陀だの、クリストだの、ソークラテースだの、みな人格修養上最好の実例として仰慕すべきところである。
倫理には普遍的一般的方面と特殊的差別的方面とがあるものと見なければならぬ。明治以来、倫理を講ずるものがややもすれば一般的普遍的の方面のみに着眼して、特殊的差別的方面を度外視するの傾向あるは、実践道徳の上から見てはなはだその当を得ざるものである。それで自分は国民道徳を力説することになったのである。国民道徳のことをいうものは明治の初年からあったけれど、これを一箇の学として講じなければならぬようになったのは、明治の末年からである。それには自分が主として関係したことで、その要旨は『国民道徳概論』にまとめてあるのである。殊に中島力造のごとく西洋倫理を翻訳的に紹介し、全く一般的普遍的の倫理を講じて、毫も東洋倫理殊にわが日本の国民道徳を説かないということはあまりに実際に適しないやりかたで、どうしても倫理は東西洋の倫理を打って一丸とし、実行するでなければならぬという考えから、余は国民道徳を主張し、学界の欠陥を補い、大いに倫理を実際的ならしむるに努力したのである。しからばその国民道徳は理想主義であるか功利主義であるかといえば、利用厚生と云う程度において功利主義と矛盾しないけれども、そこにとどまらないではるかにそれを突破して向上するものであるからむろん理想主義である。
五 宗教観
宗教に関しては、自分の論文はしばしば『哲学雑誌』および『東亜の光』等に発表したので、今くわしくこれを論ずるの暇はないけれど、畢竟、理想的倫理的の宗教を最も進歩したる宗教として主張したのである。宗教の発展の過程を三段階に分けて考えることができる。第一段階の宗教は原始的の幼稚なもので、道徳観念がはなはだ乏しくして、倫理上から見て無価値といっても差支えないくらいである。むしろ倫理道徳に反した残酷なことが多いくらいである。それがいっそう発展すると、民族的宗教となってだいぶ倫理道徳の要素が加わってくる。けれどもまだまだ倫理道徳に無関係なことが大部分を占めている。倫理道徳の要素は十中の三か四ぐらいのものである。ところが、宗教がもういっそう進んで、第三の段階に入ると世界的宗教となって、倫理道徳の要素が十中七、八ぐらいに進んでくる。宗教の進化発展は主として倫理道徳の要素の増進すると然らざることにあるので、今日文明教として最も勢力を有している仏教だのクリスト教だのいう宗教はこの第三段階の宗教で、人によってはこれを倫理教ともいっている。しかしながら、仏教だのクリスト教だのにしても、まだ幾多の迷信を伴ってきているので、哲学上から見れば、今日および今後の宗教としてあきたらぬところが多い。そこで歴史的に考察するときには宗教に三段階があるが、なお将来の宗教如何を考察するときには純然たる普遍的世界的の理想教または倫理教が興ってこなければならぬ。人によっては仏教だのクリスト教だのを倫理教というけれども、将来の宗教はいっさい迷信を除き去った純然たる倫理教でなくてはならぬ。いいかえれば、純然たる普遍的世界的の理想教を要求する次第である。カントは宗教哲学においてはやはり三段階を立てている。第一の段階は根本悪の時代で、その中に善に傾向する素質(Anlage)はあるけれども悪の方が勝っている。つぎは善悪混戦の時代である。そのつぎは善が悪に打ち勝って純然たる善の時代となった時をいうのである。これを純善の時代と名づけたならばよかろう。このカントの純善の時代がすなわち理想教または倫理教の時代である。自分は仏教に対しても多大の興味を有しており、その影響を受けたこともまた少なくない。またクリスト教の道徳思想に対しても崇敬の念を抱いている。であるから、すべての点において、仏教に対してもクリスト教に対してもけっして反対ではない。しかしながら、全体からいうと、純然たる仏教徒でもなければまた純然たるクリスト教徒でもない。哲学上から見て、一般的普遍的宗教の立場にあるのである。それで仏教といわず、クリスト教といわず、その他いかなる宗教といわず、すべて理想教たる倫理教の趣旨に合する点はこれを信ずるけれど、多大の迷信を伴っているところの過去の遺物は全然これを排斥するのである。神道はもとよりわが国の民族教であるけれども、一面これを純粋化し、深刻化し、広大化し、真に最後の倫理的理想教たらしむることは果してできないであろうか。これ今後の研究に属する問題である。
いったい、倫理と宗教と、かように人を律する二種のものが併立しているのは、過渡時代の変態で、この両者は畢竟理想教たる倫理教において統一せらるべきもので、すなわち今日の倫理をずっと宗教化し、今日の宗教をずっと倫理化して、そして畢竟今日の倫理および宗教より進んだ立場に帰着すれば、おのずからそれが理想教たる倫理教となる次第である。今日の倫理のあきたらぬところは、あまりにそれが宗教的情操を欠いているからである。倫理に関する知識としては成立しておっても情意の側においてはなはだ無勢力であるというのは、宗教的色彩のきわめて貧弱なるがためである。
六 教育論
つぎに教育について一言すれば、教育の目的は道徳的人格者をつくるにあるけれども、それはけっして国家的民族的要求と無関係のものではない。人格実現はその特殊なる国家的民族的関係を離れてなし得られるものではない。やはり特殊なる境遇に適応したる実現の方法を採らなければならぬ。それであるから道徳的人格者をつくるにあるといっても、けっして個人主義的の意義ではない。やはり国家的民族的の関係を有するもの、広くいえば、社会的関係を有するものでなければならないのである。
教育と宗教との関係は教育上なかなか重大な問題である。今日の教育はとかく形式的となって、人を感動せしむる力のないというのは、宗教的情操の欠乏にある。しからば仏教とかクリスト教とか、かかる宗教を教育に応用すべきかといえば、特殊関係の学校は別として、普通の学校に特殊の歴史的宗教を入るれば必ず偏頗《へんぱ》となって混乱を来たす。学生生徒のすべてが仏教徒に限ってもいなく、またクリスト教徒に限ってもいない。神道側の者もあれば無宗教の者もないではない。かように複雑である。それで特殊な宗教を超絶した一般的普遍的の宗教をもってするでなければならぬ。そのような宗教は倫理教よりほかはない次第である。教育はこの点において大いに改造さるべき余地がある次第である。
教育は人格を陶冶《とうや》する方法であるが、人格を陶冶するにはその被教育者の投ぜられたる特殊の境遇事情に適応することを必要とするのである。それゆえにわが国の子弟を教育するにただちにわが国と境遇事情を異にする欧米の方法をもってすべきではない。わが国においてはどこまでも伝統的の日本精神をもって指導原理として教育を施さねばならぬ。ただし欧米の方法は慎重に取捨してこれをおのれに資することを期すべきである。
七 芸術論
つぎに、芸術について一言すれば、芸術は畢竟人工的に美の理想を実現するにあるので、自然美に対すればその進歩は比較的はるかに迅速である。芸術美と自然美とにかかわらずすべて美は主観的のもので、けっして客観的のものではない。しかし美が単に主観的たるにとどまっていては、芸術は成立しない。諸種の材料をかりて美を客観的にあらわすに当って芸術が成立するのであるが、芸術は単に快感の客観化されたものではない。快感を超越した要素がなくてはならぬ。もとより崇高、深遠、幽邃、壮大、雅麗等の諸性質はそなえておらなければならぬが、また超快感的の気韻情調の観るべきものを必要とする。すなわち人を引いて彼岸の理想境に入らしむる底の魅力がなくてはならぬのである。しかし芸術の原理を功利的に見る一派がある、その説によれば芸術はいかにしても功利的に制限されるものである。社会の要求により、経済の状態によって制限されるもので、芸術家もその要求に応ずるような態度に出でて、その要求の向うところに発展をとげる。かようにして芸術は畢竟功利的に制限され、客観的にその性質を規定されるもので、主観的にいかに高尚な理想があっても発展の遂げようがないとみる人があるけれど、それは真の芸術を理解したものではない。単に功利的に制限され、規定されるようなものはけっして崇高の真の芸術ではない。芸術の原理はこれを主観的に求めなければならぬ。芸術の上乗なるものは、快楽主義や功利主義を超越したものである。
八 法理論
法理について一言すれば、法理はやはり哲学的に根本原理によって解釈さるべきもので、単に経験的に、帰納的に解釈をしても、満足な解釈の得らるべき性質のものではない。人によっては法理は進化論的に解釈すべきものと考えているけれども、それは法理の変遷、推移の跡を尋究するだけであって、法理そのものの根本的の解釈ではない。法理の根本的原理をさかのぼってゆけば、どうしてもロゴスというような哲理にもとづかなければならぬ。世界のあらゆる方面に法則態の現われがあるが、人間社会を整理し、統御してゆくに当っては、法律制度のごとき諸種の規定を要する次第で、その法律制度の改正というようなことは、時世境遇の変化とともに必要となるが、その原理は法律制度そのものの中において求むべきではない。どうしてもその法律制度の拠って起るところの根本原理に基づ
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