明治哲学界の回顧
結論――自分の立場
井上哲次郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)元良《もとら》勇次郎は
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(例)捉え[#「捉え」は底本では「促え」]得らるべきでなくして
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一 理想主義者として
つぎに、明治年間における自分の立場について、少しく話してみようと思うのであるが、だいたい自分は理想主義の側に立って絶えず唯物主義、功利主義、機械主義等の主張者とたたかってきたのである。もっとも激しくたたかった相手は加藤弘之博士であった。元良《もとら》勇次郎は友人ではあったけれど、学説においてはしばしば衝突をきたしたのである。自分は明治十四年のはじめに、大学において「倫理の大本」という題で、倫理に関する見解を発表いたし、ついでそれを一部の書として、『倫理新説』と題し、明治十六年に発行したのである。自分の倫理学上の理想主義はすでにその書に端緒を開いているはずである。自分は明治十三年に大学を卒業したのであるから、卒業後一年を経ない内に「倫理の大本」について自分の見るところを発表した次第である。それから、明治十五年にベイン(Bain)の Mental Science を抄訳して、これを『心理新説』と題して明治十五年に発行した。心理学の書としては西周のヘーヴン(Haven)の『心理学』についで、これが第二番目のものであった。それから明治十六年に、『西洋哲学講義』というのを刊行したのである。これは古代ギリシヤの哲学を講義したもので、だんだん継続して近世哲学に及ぶはずであったけれども、その翌年ドイツに留学することになったために、三冊で終った。ところがその後、有賀長雄が中世哲学を加えたので、五冊になったのである。西洋哲学に関する著書としては、これがわが国においては全く初めのものであった。
自分は東京大学においてドイツ哲学のほか夙《つと》に進化論と仏教哲学の影響を受けたのであるが、進化論者はとかく唯物的方面に傾向する。殊に加藤博士のごときは、よほど極端な唯物論者であった。自分も加藤博士と同じく進化論者ではあったけれど、どうしても唯物主義に走ることはできなかった。それはスペンサーの進化哲学を見ても、劈頭《へきとう》第一に不可知的を説いているということを考えて、スペンサーでさえもけっして徹底的な唯物主義者ではない。それに進化論はただ物質的方面の進化のみをもって満足すべきではない。精神的進化という方面を考えなければならぬ。どうも多くの進化論者は、自然科学的の進化論をもって満足して、とかく物質主義に傾向するけれど、それには自分はあきたらない感じを抱いて、どうしても哲学的方面から見た精神的進化主義をとるでなければ、はなはだ偏した不完全な進化論となるという考えであった。それで流行の唯物主義、機械主義、功利主義等に反対して、絶えず理想主義の側に立ってたたかってきた次第である。
二 現象即実在論
哲学の側においてはつとに「現象即実在論」を唱道して、しばしばこれを『哲学雑誌』において論じたのである。実在論の種類は古来いろいろあるけれども、そのようなことはしばらくおいて、本体としての実在に関する見解は、だいたい三段階を経て進んできているのである。第一の段階は一元的表面的の実在論と名づけたならばよかろうと思う。これは現象そのものをそのまま実在と見る立場であって、素朴的実在論はこれに属するのである。これは実在論としてもっとも低級な立場であって、これをもって満足し得らるるものでないから、いくばくもなく現象と実在とを分割して、現象は表面のもの、実在は裏面のものとして、実在を現象の彼岸に在るものとして立する立場をとることになる。ちょうど舞台と楽屋のように表面裏面の二方面を考えて説くのである。現象が舞台なれば実在は楽屋である。これを二元的実在論といったならばよかろうと思う。この見方は前の一元的表面的実在論に較《くら》ぶれば、ずっと分析的に進んだ見方であるけれども、実在を空間的に考うるところに非常な誤謬がある。現象を空間的に考えるのは差しつかえないけれども、現象を超越したる実在を現象と同じく空間内に引き入れて考えるということは、矛盾の甚しいものである。けれども、とかくしらずしらずそういう誤謬に陥っている思想家が多い。ドイツの哲学者は hinter den Erscheinungen, 英国の哲学者は behind the phenomena といっている。
かかる実在論に対して、自分は融合的実在論の立場をとって、これを「現象即実在論」と名づけたのである。「現象即実在論」というのは、現象そのものをただちに実在とする第一段階の実在論とは大変にちがうのであるから、けっして両者を混同すべきではない。「現象即実在論」は融合的実在論のことである。しからばこの融合的実在論というのはいかなる種類の実在論であるかというに、現象と実在とは分析すれば二種のちがった概念となるけれども、事実上においてはけっして空間的に分離されているものではない。この概念上から見た分析と事実上から見た事実的統一と、この混同を避けることが世界の真相を理解する上に非常に重大なことであるけれど、これが普通世の思想家によって全然看過されている。時あって、かかることに気づくことがあっても、全体からいえばそうでもない。とかく混同されている。ところが現象と実在との関係はいいかえれば、差別と平等との関係である。世界の差別的方面を現象と称し、世界の平等的方面を実在と称するので、差別即実在というのがこの現象即実在の考えである。これをわかりやすくいえば、現象は差別によって成立している、差別すればどこまでも差別してゆけるもので、世界のあらゆる現象はそれぞれ特殊性をもっているもので、二つの現象として全然同一のものはない。まず空間的にもしくは時間的に差別されている。そのうえに諸種の特殊性がそなわっているもので、この差別をあきらかにするのが認識の作用として一つの重大なる効果をもたらしているけれども、世界のあらゆる現象を通じてまた平等の方面がある。いかなる現象といえども特殊性はあるけれども、全然他の現象と異っているものではない。いいかえてみれば、あらゆる点において根本的に差別されているものとはいえない。いっさいを包括してそれを現象という点からみても、いっさいの現象に共通性のあることは予想されているのみならず、また現象の中に、共通性の多大なものがある。それらが分類され統一されて、ここに特殊の科学的組織ができる次第である。そのすべての現象に共通性のあるというのはすなわちその平等の方面である。一方面から見れば千差万別であるけれども、他方面から見ればすべてを通じて共通した平等的方面がある。いかなるものもそれが物質的のものならば必ず元素から成り立っている。元素は原子から成り立っており、原子は電子から成り立っている。物質的のものは複雑な現象を呈しているけれど、一として元素より成り立っておらぬものはない、原子より成り立っておらぬものはない、電子より成り立っておらぬものはない。しかしなお押し拡げて精神現象までこめて眺めてみるも、平等的方面がある。すべての現象は活動的のものである。こうみても複雑なる差別的方面のあるとともに、単純なる平等的の方面を否定するわけにいかぬ。現象と実在とは同一物の両方面で、事実上においてはけっして分離されているものでなく、現象は実在とともにあり、実在は現象を透してあり、現象は実在を離れてあるものでなく、現象のあるところに実在があり、実在のあるところに現象がある。それであるのに現象の彼岸に実在があるように説くのは、人をして世界の真相を誤解せしむる所以《ゆえん》である。また実在を認めないで、現象をもって実在となし、現象以外に実在なしとするのは俗見であって、哲学的の見地から見て甚だ幼稚なものである。それでこの第三の実在論の立場は現象と実在というこの二つの対立を超上してすなわち aufheben して、真実一元観に達する次第で、これを円融相即の見解というべきである。
科学的進化論のごときは、われわれもこれを真理と見るけれど、これによって哲学の全体を蔽うわけにいかない。というのは科学的進化論はただ現象界のことにのみとどまる。そもそも進化はまず動的状態を予想して初めて説くべきであるから、哲学は進化以上の根本原理にさかのぼらなければならぬ。この第三の融合的実在論は実在論として終極のもので、どうしても実在論というものは、畢竟ここに至らなければならないのである。ところが、カントでさえもやはり現象を実在の彼岸に在りしとして、現象界にのみ応用さるべき空間の図式を、現象界の彼岸に応用して実在を多数と見て(Dinge an sich)分量の範疇をこれに応用したことは、たしかに矛盾といわなければならぬ。現象は活動的のものであるが、活動的のものはただ活動ではなくして、必ず法則的に活動せざるを得ない。法則的に活動するよりほか、活動は可能でない。その法則的という方面は永久不変のもので、すなわち常住的のもので、そこに古今にわたり、東西に通じて、一定した方面がある。これが根本原理で、すなわち絶対というべきものである。この根本原理は静止的のものである、これがすなわち実在である。実在は静的であり、現象は動的である。その動的の方面を現象とし、静的の方面を実在とするので、動静不二、両者は全然同一体の両方面に過ぎないのであるが、思想家によっては単に動のみを力説する人がある。クローチェのごときは絶対運動として世界を見る、これはヘーゲルからきた考えであろうが、ヘーゲルも同じく絶対理性が永久に発展してゆく考えであるが、絶対としては発展の余地のあろうはずがない。また動という方面があれば必ず静という方面がなければならぬ。概念としては一方のみあって、その反対を否定するわけにいかない。この一般法則的状態がすなわちロゴスと名づけられてきたもので、これの世界的経営の上から見れば叡智ともいうべく、これを目的行動という方面からいえば Sollen ともいうべく、人間終極の理想ともいうべきである。
認識はただこの現象のみについて成立し得るものである。しかしそれは経験的認識である。超越的認識はこの実在に関する認識である。畢竟認識も超認識的認識すなわち叡智とならねばならぬ。経験的認識はどこまでも差別性を離れないものである。それで実在を対現象的に見たときは、いつのまにか実在を差別視しているのである。実在は経験的認識を超越したものである、すなわち不可知的である。世界の真相は現象と実在との差別観を超越したところにあるのである。真の認識すなわち叡智はその超越界に関する次第で、悟りの境涯となってくるのである。
三 人生哲学
つぎに人生哲学の方面より考察してくると、こういうことになる。進化論者の側においては、二つの根本欲を立てて説明してくるのである。その二つの根本欲は生存欲と生殖欲とである。これは動植物を通じて応用せらるるのである。もとより人間もこの範囲を出でないものとして説明されているが、この点において自分はちがった考えを持っている。この点においては進化論の側からは人間の人間たる所以が説明されていない。すなわち人間の他動物と異っている特色をあきらかにすることができていない。かかる進化論者の学説がよほど広く学界に影響して、そして物質主義、功利主義、機械主義、本能主義というような主張となっていると考える。自分はどうしてもモー一つこれとちがった根本欲があるものとしなければならないと思う。それで生存欲と生殖欲はこれを自然欲(Naturtrieb)と名づけて、それ以外に智能欲(intellektueller Trieb)というものを、一つの根本欲として立てなければならぬ。これは自然欲に対する精神欲である。この精神欲を暫く知能欲と名づくるのであるが、それはまた発展欲もしくは完成欲と名づけてもよい。す
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