かねばならぬ。その根本原理は単に社会現象として現われてきたものによって捉え[#「捉え」は底本では「促え」]得らるべきでなくして、広く哲理的に思索してはじめて到達し得らるるところの根本原理でなくてはならぬ。換言すればけっして派生的の枝葉の解釈によって満足し得らるるものではない。必ず終極の根本原理に遡ってはじめて徹底したる法理の概念が得らるる次第であるから、進化論のようなすでに運動を予想したる現象界の科学的理法によって解釈し得られると思うべきではない。進化論のみによって解し得らるるとなすならば、そのような法理は運動あって以上の現象界にとどまるものと見るほかないのである、といわなければならぬ。

   九 哲学方法論

 最後に哲学の方法論について一言つけ加えておきたいのは、西洋では哲学を攻究するにあたって、型のごとくギリシヤ以来の哲学を頭に持ちて考察するのであるが、わが日本においては、明治以来西洋哲学が輸入されて、どういう研究法を採るようになったかといえば、とかく西洋風に考察する。哲学といえば、ギリシヤから中世を経て、近世欧州殊にドイツに至るまでの哲学を哲学として研究し、それの延長もしくは継続という考えで攻究する。西洋の哲学に関係なきものは哲学でないかのごとき考えを抱く。ここに方法論として非常にまちがいがあると思う。いったい、西洋の哲学者がギリシヤ以来の哲学のみを哲学として考えたのがまちがいである。インドだの支那の哲学も考慮に入れなければならぬ。そこでショーペンハウエル、エドワルト・フォン・ハルトマン、ニイチェ、ドイッセンのごときは、よほど東洋哲学を考慮に入れたものである。殊にドイッセンのごときは主として東洋哲学を攻究し、その価値を発揮することに努めたのである。ところが、わが日本は東洋の国でそして多大に支那およびインドの哲学の影響を受けているのにもかかわらず、支那およびインドの哲学を度外視し、無視し、知らざる真似して、単に西洋哲学の延長として、その系統にのみ属する考えでゆくのはこれはたして東洋人として公平なる立場であろうか、どうであろうか。方法論として、その当を得たものであろうか。自分はけっしてそうは思わない。
 人によっては、よく東洋の哲学を研究しないで、東洋の哲学は単に考古学的、文献学的の価値よりほかにないとしてかえりみないようであるが、それはよく東洋哲学を研究せざ
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