期を劃していると思われる。
 それで、明治の哲学の第二期においては哲学を研究する者はいずれもドイツの哲学を主として研究したのである。まして外国教師の哲学を担任せるものとしてブッセだのケーベルだの、これらはいずれもドイツ人であるから、この哲学界における傾向と看過すべからざる関係があった次第である。かようにドイツの哲学を骨子として研究するようになした影響は今日まで多大に残っていることを誰しも認めるであろう。ただ今日はどうもとかくドイツ哲学のみによって、あまりにそれに呑まれ過ごしてその範囲からとうてい脱却し能わざるような状態となっている。いいかえてみれば、ドイツ哲学に拘泥し、またこれに心酔することが極端となったような状態である。これははなはだ遺憾なことである。そのようにならないように、自分ははじめから絶えず東洋の哲学を講じてバランスを保つように努力してきたのであるけれども、この精神をよく汲みとってくれる人のはなはだ少ないのは遺憾に堪えない次第である。しかし早晩目覚めてくるに相違ないと信じている。
 明治三十八年以後は日露戦争の結果であろう、だいぶ形勢が変ってきた。それより前に日清戦争があった
前へ 次へ
全13ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
井上 哲次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング