明治哲学界の回顧
序論
井上哲次郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)西周《にしあまね》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大西|祝《はじめ》
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一
わが国には古来、神道だの儒教だの仏教の哲学が行なわれておったのであるけれども、西洋文明の輸入とともに別系統の哲学思想が新たに明治年間に起って来た。すなわちそれは西洋の哲学思想に刺戟せられて、わが国においても種々なる哲学的思索を促してきたのである。その結果、伝統的の東洋思想とはおのずから異った哲学思想の潮流を発生するようになってきた次第である。西洋思想の真先に輸入されたのは宗教思想(すなわちクリスト教)であったが、それに次いで医学、化学、物理学、植物学、兵学などが輸入されたのであったけれども、明治の初年に至って、哲学、論理学、心理学など、先覚者のはじめて注意するところとなって、思想界に清新の気運を喚起してきたのである。
明治初年の思想家で、哲学およびその他精神科学に関係のある主なる人々を挙ぐれば、まず西周《にしあまね》を筆頭とし、西村茂樹、加藤弘之、外山正一《とやままさかず》、中江篤介などであった。しかして自分もその間において哲学、倫理学、心理学等に関する著述または翻訳を発行し、それから宗教その他の思想問題について種々意見を発表したのである。それから自分よりは後輩ではあるが、三宅雄二郎、井上円了、有賀長雄、大西|祝《はじめ》、清沢満之《きよさわまんし》、高山林次郎などという人々も哲学思想の興隆には少なからざる関係があったのである。その他福沢諭吉とか中村正直(敬宇と号す)とかいうような人々もけっして無関係とはいわれない。福沢という人は別にこれという哲学的の著書のあるわけでもなく、何ら哲学的思索の形跡は認められないけれども、しかし西洋文明の輸入者として、また広く当時社会の先覚者として思想界に大きな影響を及ぼした人であるからには、哲学史の上から見てもけっして看過することのできない人物であると思う。殊に福沢諭吉と加藤弘之とは当時注意すべき対立的の学者であった。ここにはきわめて大体のことしかいえないが、加藤という人はよほど学究的の性質があって、哲学の問題を最後まで研究し、どこまでもみずから哲学者たらんことを期したので、いやしくも明治時代の哲学を回想するに当ってはどうしても度外視することのできない人物であるが、福沢氏の方はそういう専門的の意味からでなく、広汎なる立場から見て、どうしても見逃すことのできないものがあるのである。殊に英、米の文明思想を率先して輸入し、これに反して儒教のような東洋思想を破壊することを努力した人である。いいかえてみれば、支那文明のような当時なお相当勢力を有しておったものを全然根柢からくつがえしてこれに代うるに英、米の新文明をもってしようと努力したのである。時勢も時勢で、ちょうど攘夷の非なることを覚《さと》って一日も早く西洋の長所を学ぼうという社会的要求の切なる際であったからして、福沢の苦心もむなしからず、その効果は意外に洪大となった。昔から「智恵アリトイエドモ勢イニ乗ズルニシカズ」ということがあるが、福沢はよく時の勢いに乗じてその志をなしとげたものといってよかろう。いずれその哲学に関係ある方面のことは追って別に述べることにいたして、中村正直という人のことについて一言しておきたい。この人は敬宇先生として知られているが、元来哲学だの論理学などということにはあまり注意もしないし、また喜ばなかった。殊に論理学などは最もきらいであった。ただしそれはよくもわかっていなかったようにも思う。が、この人はむしろ情の側の人で、道徳を主とし、宗教を崇《とうと》ぶという性質の人であったからして、直接哲学に関係あるというよりはむしろそういう方面に大いに注意すべき方面があった。もっともその翻訳などは広く世の人に購読せられたので、社会教育の方面から見ても西洋思想輸入という立場から見ても、明治の文運に多大の貢献をした人で、明治の思想史の側においてけっして看過すべき人でないと思う。
つまり明治の初年に新たに哲学の起ってきたというのも時勢の変化がさように促してきた結果である。徳川幕府が倒れて明治維新となり、西洋思想を輸入することが急激となってきた際、社会全体の大変化、大刷新とともに哲学も起ってきたような次第であるから、単に二、三または四、五の人の力のみによったわけではない。しかしその中の主要なる人物を挙ぐれば先刻列挙した人々がまず念頭に浮ぶのであるが、これらの人々の努力と苦心とによってまたさらに広く社会に多大の影響を及ぼしたことはいうまでもない。
それから明治の初年には仏教だの儒教だの、そういう伝統的の哲学思想もまたなかなか勢力を
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