ある。自分はちょうどこの教育勅語煥発の際にドイツから六、七年ぶりに帰朝し、いくばくもなくその教育勅語を解釈し、『勅語|衍義《えんぎ》』と題してこれを世に公にするの光栄を得たのである。それからちょうどその教育勅語の煥発せられた頃より東京大学に教授となって教鞭を執り、三十三年間継続し、その間、宗教に関しては仏教を中心として比較宗教を講じ、哲学の側においては東洋哲学史とともに西洋哲学史を講じ、殊にカントとショーペンハウエルとを講じたのである。そのように、西洋哲学としては主としてドイツの哲学を紹介し、かつこれを学生に教えこんだのである。しかして哲学およびその他精神科学研究のために西洋に派遣せらるる留学生には主としてドイツに往くことを勧誘したのである。わが国においてドイツ哲学の重要視せらるるようになったのは自分らの努力によることが多大である。もっとも明治二十年に来朝したブッセなどもこのことに関係がなかったとはいえない、それまでの英、米哲学を本位にしておったのとは非常に形勢が変ってきた、殊に大学およびその他講壇の側において然《しか》るのである。それで、明治二十三年は諸種の方面からみて、哲学史上一時期を劃していると思われる。
 それで、明治の哲学の第二期においては哲学を研究する者はいずれもドイツの哲学を主として研究したのである。まして外国教師の哲学を担任せるものとしてブッセだのケーベルだの、これらはいずれもドイツ人であるから、この哲学界における傾向と看過すべからざる関係があった次第である。かようにドイツの哲学を骨子として研究するようになした影響は今日まで多大に残っていることを誰しも認めるであろう。ただ今日はどうもとかくドイツ哲学のみによって、あまりにそれに呑まれ過ごしてその範囲からとうてい脱却し能わざるような状態となっている。いいかえてみれば、ドイツ哲学に拘泥し、またこれに心酔することが極端となったような状態である。これははなはだ遺憾なことである。そのようにならないように、自分ははじめから絶えず東洋の哲学を講じてバランスを保つように努力してきたのであるけれども、この精神をよく汲みとってくれる人のはなはだ少ないのは遺憾に堪えない次第である。しかし早晩目覚めてくるに相違ないと信じている。
 明治三十八年以後は日露戦争の結果であろう、だいぶ形勢が変ってきた。それより前に日清戦争があったけれども、あれに較べると、日露戦争はいっそう影響するところが多く、その結果思想界にまで変化を及ぼすに至ったのは怪しむに足らないと思う。もっとも大正年間に入って世界大戦があったからして、これまた非常な変動をもたらしたのであるけれども、世界大戦に先立っては日露戦争がわが日本にとってはながく深刻な印象を与え、非常な影響をわが思想界に及ぼしたのである。それで、日露戦争後は個人の自覚が顕著となり、狭隘《きょうあい》なる愛国心よりたちまち目醒めて、世界的の広大なる精神が俄然発達し、ある者は特に社会問題に深大なる注意を払うようになってきたのである。それで、明治三十八年をもって思想界に一時期を劃したものということもまた一つの見方であろうと思う。マア大きくみればかかる小さな区別はさほど重要でないかもわからぬけれども、しばらく便宜のためにこういう三つの区別を立てて明治の哲学を論ずることにしようと思う。

      三

 それからして、明治の哲学思想、それについで大正の哲学思想、これを通じて二つの大きなちがった系統があると思う。それはもとよりどこの国にもおのずからあるけれども、明治以前にはほとんど無くして、明治以後にはたしかにあざやかにたどってゆける二種の系統があると思う。一つの思想の系統は物質的、経済的、客観的、実際的、しかして功利的というような系統である、ジェームスのいわゆるタフマインデッドの思想である。この方面は社会においていつも優勢で、ずいぶん極端までゆくことを常としたものである。もう一つの側は唯心的、超絶的、主観的、道徳的、宗教的、というような思想の系統である。この側は前者に比すれば深遠となり、微妙となり、幽奥となりゆくが、どうかすると世間とかけはなれて迂遠となり微弱となるような傾向もないではない。これはジェームスのいわゆるテンダーマインデッドの側である。この二つの系統の相互関係如何、その利害得失如何、またその将来の成行き如何というようなことについてはなお本論に至って論ずる心意であるが、とにかく過去約五、六十年の歴史はあきらかにこの二系統の思想の潮流を歴史的事実の上に立証することができるのである。そうであるけれども、この二つの思想の系統の間には種々なる程度の思想のあることを看過するわけにはゆかない。本論文においてそれらの点をことごとく論じつくすことは不可能であるけれども、そ
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