、その研究者自身の頭の中まで潜り込む事が出来ない以上は、その人の得た結果を採用するという事にはやはりこのイズムの匂がある。
しかしそこまで考えて行くと、人間の知識全体から自分の直接経験から得たものを引去った残りの全部は、結局同じようなものではあるまいかと思われ出した。少なくも仮りに私が机の上で例えば大根の栽培法に関する書物を五、六冊も読んで来客に講釈するか、あるいは神田へ行って労働問題に関する書物を十冊も買い込んで来て、それについて論文でも書くとすればどうだろう。つまりはヘレン・ケラーが雪景色を描き、秋の自然の色彩を叙すると同じではあるまいか。
ここまで考えたが、事によるとこの最後の比較は間違っているかもしれないと思う。もう一度始めから考え直してみる必要がある。しかしもしこれが当を得ているとしたら、結局私は大根裁培法を論じていいものだろうか悪いものだろうか。もしこれが悪いとなると困るのは私ばかりではないかもしれない。
まあいずれにしても私の大根裁培法が巣鴨の作兵衛氏に笑われる事だけは確かだろうと思った。
こんな事を考えたのが動機となって、ふと大根が作ってみたくなったので、花壇の
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