皇の御代に二艘の船に分乗して出掛けた一行が暴風に遭って一艘は南海の島に漂着して島人にひどい目に遭わされたとあり、もう一艘もまた大風のために見当ちがいの地点に吹きよせられたりしている。これは立派な颱風であったらしい。また仁明《にんみょう》天皇の御代に僧|真済《しんさい》が唐に渡る航海中に船が難破し、やっと筏《いかだ》に駕《が》して漂流二十三日、同乗者三十余人ことごとく餓死し真済と弟子の真然《しんねん》とたった二人だけ助かったという記事がある。これも颱風らしい。こうした実例から見ても分るように遣唐使の往復は全く命がけの仕事であった。
 このように、颱風は大陸と日本との間隔を引きはなし、この帝国をわだつみの彼方《かなた》の安全地帯に保存するような役目をつとめていたように見える。しかし、逆説的に聞えるかもしれないが、その同じ颱風はまた思いもかけない遠い国土と日本とを結び付ける役目をつとめたかもしれない、というのは、この颱風のおかげで南洋方面や日本海の対岸あたりから意外な珍客が珍奇な文化を齎《もたら》して漂着したことがしばしばあったらしいということが歴史の記録から想像されるからである。ことによる
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