ころ》がっていた。そこへ重い荷物を積んだ自動荷車が来かかって、その一つの車輪をこの煉瓦に乗り上げた。煉瓦はちょうど落雁《らくがん》か何かで出来てでもいるようにぼろぼろに砕けてしまった。
この瞬間に、私の頭の中には「煉瓦が砕けるだろうか、砕けないだろうか」という疑問と「砕けるだろう」という答とが、ほとんど同時に電光のように閃《ひらめ》いた。しかしその声が煉瓦のまだ砕けない前に完了したのであったか、それとも砕けるのを見てから後であったのか、事柄の経過したすぐ後で考えてみても、どうしてもよくわからない。しかしたぶんそれは後の方であったらしい。
実際われわれの感覚する生理的の時間は無限に小さな点の連続ではなくて、有限な拡がりをもった要素の連続だという事、それから、その有限な少時間内では時の前後が区別出来ないという学説は本当らしい。
このようにして生じた時間の前後の転倒は、われわれの記憶として保存されている間にその間隔を延長するのが通例であある。その結果として後日私がこの経験を人に話す場合に「煉瓦が砕けるだろうと思って見ていたら、果して砕けた」と云ってしまう恐れがある。これは無意識ではあるがやはり一種の嘘であるに相違ない。
九
ある偏屈だと人から云われている男が、飼猫に対する扱い方が悪いと云ってその夫人を離縁した。そういう噂話をして面白がって笑っている者があった。
表面に現われたそれだけの事実を聞けば、なるほどおかしく聞こえる。しかし、その男が元来どうしてそれほどまでに猫を可愛がるようになったかという過程を考えてみる、そうすると彼の周囲の人間が、少なくも彼の目から見て、彼の人間らしい暖かい心を引出す能力を欠いていたのではないかという疑いが起る。もしそうだとすると彼は淋しい人である。
こういう男にとって、その飼猫に対する細君《さいくん》の待遇は、そのままに彼自身に対する待遇である。猫に対する冷酷はすなわち夫に対する冷酷ではあるまいか。
こう考えると私はこの男を笑う気にはどうしてもならなくなった。
[#地から1字上げ](大正十二年十月『週刊朝日』)
十
芝生に水をやるのに、十分に、たっぷり、土の底深く浸み込むまでやることにしなければいけない。もし、ほんの表面の薄い層だけ湿《しめ》るようなやり方をしていると、芝の根がついつい欺されて甘やかされて、浅い上層だけに発達して来る。そうして大旱《たいかん》に逢った時に、深層の水分を取ることが出来なくなって、枯死してしまう。
少し唐突な話ではあるが、これと同じように、目前の利用のみを目当てにするような、いわゆる職業的の科学教育は結局基礎科学の根を枯死させることになりはしないか。これは、深く考えてみなければならない刻下の重大な問題である。
十一
排日案に対して、フィルムや、化粧や、耳かくしのボイコットが問題になっている。
ところが先頃ゴビの沙漠の砂の中から地質時代の大きな爬虫《はちゅう》のディノソーラスの卵を発見した米国の学者達は、今度はまた中部アジアの大沙漠へ、地質時代の人間の祖先の骨を捜しに出かける準備をしている。なんでも駱駝《らくだ》を二百匹とか連れて何年がかりとかで出かけるそうである。
誰か、どこかで、原人の尻尾《しっぽ》の化石でも掘り出して見せる日本人はないものだろうか。そんなものの二つか三つも掘り出したら、排日問題などは容易に解決されるにちがいない。
日本の大学へ、欧米から留学生が押しかけて来るようになったら、日本の製造工場へピッツバーグやスケネクタディあたりから、見習職工が集まって来るようになったら、そうしたら、一切のこういう問題はなくなるだろう。
米国の排日法は、桐の一葉のようなものである。うっかりしていると、今に世界の方々の隅から秋風が来る。
十二
日本人のした学芸上の仕事で、相当に立派なものがあっても、日本人の間では、その価値は容易に認められない。たまたま認めている人はあっても、たいてい黙っている。認めない人は、たいてい軽々にくさしてしまう。ところがその仕事が、偶然にでも、西洋で認められて、あちらの雑誌にでも紹介される。すると、その仕事の本国における価値が急に高まるのである。ちょうど反古《ほご》同様の浮世絵が、一枚何千円にもなると同様である。それと反対に、もし外国の雑誌にでも、ちょっとした、いい加減な悪口でも出ると、それがあたかも非常な国辱ででもあるように感ぜらるる。
こんな心細い状態が、いつまでつづくのだろう。
十三
日本橋その他の石橋の花崗石《みかげいし》が、大正十二年の震火災に焼けてボロボロにはじけた痕《あと》が、今日でも歴然と残っている
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