ない事である。プロパガンダの出来ない事である。
 馬と人間と一つにはならないという人があるだろう。
 そんな理窟がどこから出て来るかを聞きたい。

         五

 日本中の大工業家が寄り合って飯を食ったり相談をする建物がある。その建物の正面の屋根の上に一組の彫像のようなものが立っている。中央に何かしら盾《たて》のようなものがあってその両脇に男と女の立像がある。
 これはたぶん商工業の繁昌を象徴する、例えば西洋の恵比須大黒《えびすだいこく》とでも云ったような神様の像だろうと想像していたが、近頃ある人から聞くと、あれは男女の労働者を象《かたど》ったものだそうである。これを聞いた時に私は微笑を禁ずる事が出来なかった。

         六

 田舎道の道端に、牛が一匹つながれていた。そこへ十歳前後くらいの女の児が二、三人つれだって通りかかった。都会の小学校へ通っての帰途らしい。突然女の児の一人が「牛は、わりに横眼がうまいわねえ」と云った。
 近頃次第に露骨になりつつある都会のある階級の女のコケトリーについて、人から色々の話を聞かされていた私は、この無心の子供のこの非凡な註説《リマーク》を無意味には聞き逃す事が出来なかった。

         七

 知名の人の葬式に出た。
 荘厳な祭式の後に、色々な弔詞《ちょうし》が読み上げられた。ある人は朗々と大きな声で面白いような抑揚をつけて読んだが、六《むつ》かしい漢文だから意味はよく分らなかった。またある人は口の中でぼしゃぼしゃと、誰にも聞こえないように読んでしまった。後にはただ弔詞を包紙に包んだままで柩《ひつぎ》の前に差し出すのも沢山にあった。
 いったい弔詞というものは、あれは誰にアドレッスされたものだろう。死んだ人を目当てにしたものか、遺族ないしは会葬者に対して読まれるものだろうか、それとも死者に呼びかける形式で会葬者に話しかけるものだろうか。あるいは読む人の心持だけのものであるか。
 いずれにしてもあれはもう少し何とかならないものだろうか。
 むしろ故人と親しかった二、三の人が、故人の色々な方面に関する略歴や逸事のようなものを、誰にも分る普通の言葉で話して、そうして故人の追憶を新たに喚《よ》び起すようにした方がもう少し意味がありはしないか。

         八

 道路の真中に煉瓦《れんが》の欠けらが転《
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