》の先の鋏《はさみ》をはずして袋の両端から少しずつ虫を傷つけないように注意しながら切って行った。袋の繊維はなかなか強靱《きょうじん》であるので鈍い鋏の刃はしばしば切り損じて上すべりをした。やっと取り出した虫はかなり大きなものであった、紫黒色の肌がはち切れそうに肥《ふと》っていて、大きな貪欲《どんよく》そうな口ばしは褐色《かっしょく》に光っていた。袋の暗やみから急に強烈な春の日光に照らされて虫のからだにどんな変化が起こっているか、それは人間には想像もつかないが、なんだか酔ってでもいるように、あるいはまだ長い眠りがさめきらないようにものうげに八対の足を動かしていた。芝生の上に置いてもとの古巣の空《あ》きがらを頭の所におっつけてやっても、もはやそれを忘れてしまったのか、はい込むだけの力がないのか、もうそれきりからだを動かさないでじっとしていた。
もう一つのを開いて見ると、それはからだの下半が干すばって舎利《しゃり》になっていた。蚕にあるような病菌がやはりこの虫の世界にも入り込んで自然の制裁を行なっているのかと想像された。しかし簔虫《みのむし》の恐ろしい敵はまだほかにあった。
たくさんの袋を外からつまんで見ているうちに、中空で虫のお留守になっているのがかなり多くのパーセントを占めているのに気がついた。よく見ていると、そのようなのに限って袋の横腹に直径一ミリかそこらの小さい孔《あな》がある事を発見した。変だと思って鋏《はさみ》でその一つを切り破って行くうちに、袋の中から思いがけなく小さい蜘蛛《くも》が一匹飛び出して来てあわただしくどこかへ逃げ去った。ちらりと見ただけであるがそれは薄い紫色をしたかわいらしい小蜘蛛であった。
この意外な空巣《あきす》の占有者を見た時に、私の頭に一つの恐ろしい考えが電光のようにひらめいた。それで急いで袋を縦に切り開いて見ると、はたして袋の底に滓《かす》のようになった簔虫の遺骸《いがい》の片々が残っていた。あの肥大な虫の汁気《しるけ》という汁気はことごとく吸い尽くされなめ尽くされて、ただ一つまみの灰殻《はいがら》のようなものしか残っていなかった。ただあの堅い褐色《かっしょく》の口ばしだけはそのままの形をとどめていた。それはなんだか兜《かぶと》の鉢《はち》のような格好にも見られた。灰色の壙穴《こうけつ》の底に朽ち残った戦衣のくずといったような気もした。
この恐ろしい敵は、簔虫の難攻不落と頼む外郭の壁上を忍び足ではい歩くに相違ない。そしてわずかな弱点を捜しあてて、そこに鋭い毒牙《どくが》を働かせ始める。壁がやがて破れたと思うと、もう簔虫のわき腹に一滴の毒液が注射されるのであろう。
人間ならば来年の夏の青葉の夢でも見ながら、安楽な眠りに包まれている最中に、突然わき腹を食い破る狼《おおかみ》の牙《きば》を感じるようなものである。これを払いのけるためには簔虫《みのむし》の足は全く無能である。唯一の武器とする吻《くちさき》を使おうとするとあまりに窮屈な自分の家はからだを曲げる事を許さない。最後の苦悩にもがくだけの余裕さえもない。生物の間に行なわれる殺戮《さつりく》の中でも、これはおそらく最も残酷なものの一つに相違ない。全く無抵抗な状態において、そして苦痛を表現する事すら許されないで一分だめしに殺されるのである。
虫の肥大なからだはその十分の一にも足りない小さな蜘蛛《くも》の腹の中に消えてしまっている。残ったものはわずかな外皮のくずと、そして依然として小さい蜘蛛一匹の「生命」である。差し引きした残りの「物質」はどうなったかわからない。
簔虫が繁殖しようとする所にはおのずからこの蜘蛛が繁殖して、そこに自然の調節が行なわれているのであった。私が簔虫を駆除しなければ、今に楓《かえで》の葉は食い尽くされるだろうと思ったのは、あまりにあさはかな人間の自負心であった。むしろただそのままにもう少し放置して自然の機巧を傍観したほうがよかったように思われて来たのである。簔虫にはどうする事もできないこの蜘蛛にも、また相当の敵があるに相違ない。「昆虫《こんちゅう》の生活」という書物を読んだ時に、地蜂《じばち》のあるものが蜘蛛を攻撃して、その毒針を正確に蜘蛛の胸の一局部に刺し通してこれを麻痺《まひ》させるという記事があった。麻痺した蜘蛛のわき腹に蜂は一つの卵を生みつけて行く。卵から出た幼虫は親の据《す》え膳《ぜん》をしておいてくれた佳肴《かこう》をむさぼり食うて生長する、充分飽食して眠っている間に幼虫の単純なからだに複雑な変化が起こって、今度目をさますともう一人前の蜂になっているというのである。
ある蜘蛛が、ある蛾《が》の幼虫であるところの簔虫の胸に食いついている一方では、簔虫のような形をしたある蜂《はち》の幼虫が、他の蜘蛛《くも》
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