回していたのではないかという疑いである。
 やっているうちに立ち会い役人の目を盗んですりかえようと思ったのだというのは最も常識的な解釈で、それを否定する事はむつかしい。しかしただそれだけであったかどうかが問題である。
 うそもしょっちゅうついているとおしまいには自分でもそれを「信じる」ようになるというのは、よく知られた現象である。いろいろな「奇蹟《きせき》」たとえば千里眼透視術などをやる人でも、影にかくれた助手の存在を忘れて、ほんとうに自分が奇蹟を行なっているような気のする瞬間があリ、それが高じると、自分ひとりでもそれができるような気になる瞬間もありうるものらしい。幾年もつづけてジグスとマギーをかいている画家は、おしまいには生きたジグスとマギーの存在を信じて疑わなくなるだろうが、それと似た頭の迷いが起こりはしないか。
 ビーカーのパルプが真綿に変わるまでの途中の肝心の経路も考え方によっては、ほんのちょっとした事のように思われるかもしれない。そのちょっとのところに目をふさいで見れば、確かに藁《わら》が真綿になるに相違ないのである。山の芋が鰻《うなぎ》になったりする「事実」も同様である。だ
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