回していたのではないかという疑いである。
やっているうちに立ち会い役人の目を盗んですりかえようと思ったのだというのは最も常識的な解釈で、それを否定する事はむつかしい。しかしただそれだけであったかどうかが問題である。
うそもしょっちゅうついているとおしまいには自分でもそれを「信じる」ようになるというのは、よく知られた現象である。いろいろな「奇蹟《きせき》」たとえば千里眼透視術などをやる人でも、影にかくれた助手の存在を忘れて、ほんとうに自分が奇蹟を行なっているような気のする瞬間があリ、それが高じると、自分ひとりでもそれができるような気になる瞬間もありうるものらしい。幾年もつづけてジグスとマギーをかいている画家は、おしまいには生きたジグスとマギーの存在を信じて疑わなくなるだろうが、それと似た頭の迷いが起こりはしないか。
ビーカーのパルプが真綿に変わるまでの途中の肝心の経路も考え方によっては、ほんのちょっとした事のように思われるかもしれない。そのちょっとのところに目をふさいで見れば、確かに藁《わら》が真綿になるに相違ないのである。山の芋が鰻《うなぎ》になったりする「事実」も同様である。だんだんにこの「事実」に慣れて来ると、おしまいには、そのいわゆる「ちょっとした」経路を省略しても同じ事になりそうな気がするものではあるまいか。頭の冷静な場合にはそんな事はないとしても、切迫した事態のもとに頭が少し不透明になった場合には存外ありそうな事だと思う。
この事件は見方によっては頭のよくない茶目のいたずらとも見られる。しかしまた犯罪心理学者の研究資料にもなれば、科学的認識論の先生が因果律の講釈をする時の材料にもなりうる。
因果をつなぐかぎの輪はただ一つ欠けても縁が切れる。この明白な事をわれわれはつい忘れたりごまかしたりする事がある。われわれの過失の多くはここから来る。鉄道や飛行機の故障などもこういう種類に属するのが多い。綱紀紊乱《こうきびんらん》風俗廃頽《ふうぞくはいたい》などという現象も多くはこれに似た事に帰因する。うっかりこの下手《へた》な手品師を笑われない。
[#地から3字上げ](大正十四年十一月、中央公論)
底本:「寺田寅彦随筆集 第二巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1947(昭和22)年9月10日第1刷発行
1964(昭和39)年1月16日第22刷改版発行
1997(平成9)年5月6日第70刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年6月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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