け句との「面」の関係は、複雑に連絡した一種のリーマン的表面の各葉の間の関係のようなものである。句の外観上の表面に現われた甲の曲線から乙の曲線に移る間に通過するその径路は、実は幾段にも重畳した多様な層の間にほとんど無限に多義的な曲線を描く可能性をもっているのである。そうして連句というものの独自なおもしろみはまさにこの複雑な自由さにかかっているのである。要するに普通の詩歌の相次ぐ二句は結局一つの有機的なものの部分であり、個体としての存在価値をもたないものであるが、連句の二句は、明白に二つの立派な独立な個体であって、しかもその二つの個体自身の別々の価値のみならず、むしろ個体と個体との接触によって生ずる「界面現象」といったようなものが最も重要な価値をもつものになるのである。そうしてこの点がすでに連句と音楽との比較の上に一つの著しい目標を与えるのである。これを私は今かりに旋律的要素と名づけてみようと思う。
 音楽の最も簡単なものを取ってみると、それは日蓮宗《にちれんしゅう》の太鼓や野蛮人の手拍子足拍子のようなもので、これは同一な音の律動的な進行に過ぎない。これよりもう少し進歩したものになると互いに音程のちがった若干種類の音が使われるようになって、そこにいわゆるメロディーが生まれる。二種の高さの音をそれぞれに取り離して全く別々に聞くだけならば、振動数がかなりちがってもたいしてちがった感じの違いは起こらないのが、二つの音を相次いで聞くときに始めて甲乙二音の音程差に対して特別な限定が生じ、そこからいわゆる音階が生まれて来る。これが旋律の成立の第一条件である。たとえばある基音に対して長三度の音と短三度の音とを二つ別々に相当な時間を隔てて聞いたのではどちらでも全く同じ心持ちしか起こらない。しかし基音からすぐに長三度へあがるのと短三度へ上がるのとではそれこそ全く春と秋とちがうほどの差違を感ずるであろう。次いで五度に移ってみればこの差違はいっそう明瞭《めいりょう》に感じられる。
 連句における一句とその付け句との接続にはこれとよく似たある物があるのである。いったい甲音と乙音とが接続して響く際われわれ人間の内耳の微妙な機官に何事が起こってその結果われわれの脳髄に何事が起こるかということについては今日でも実はまだよくわかっていないのであるが、ただ甲が残して行った余響《ナハクラング》あるいは残像《ナハビルド》のようなものと、次に来る乙との間のある数量的な関係で音の協和不協和が規定されることだけは確実である。連句の場合にはもちろん事がらが比較にならぬほどあまりに複雑であって、到底音の場合などとの直接の比較は許されないが、ただ甲句を読み通した後に脳裏に残る余響や残像のようなものと、次に来る乙句の内容たる表象や情緒との重なりぐあいによって、そこに甲乙二句一つ一つとはまた別なある物が生まれ、これが協和不協和の感を与えることだけは確実である。この二つのものの接触によって生まれる第三の新しいもの、すなわち「音程」というものに相当するものがちょうど連句の場合の「付け味」になると考えることもできる。
 今ただ二つの音の連続だけでは旋律はできあがらないと同様に、ただ一対の長句と短句だけでは連句はできない。いろいろな音程が相次いで「進行」して始めて一つの旋律一つの節回しができ、そうすることによってそこにほとんど無際限な変化の自由が生ずるのである。普通のわれわれの音楽で使われる音程の数は有限な少数であるのに、実際これからあらゆる旋律、たとえば追分節《おいわけぶし》も生まれればチゴイネルワイゼンも生まれる。ましてや連句の場合にこの音程に相当する付け味の数は言わば高次元の無限大である。これから見ても連句の世界の広大無辺なことをいくらでも想像することができるであろう。
 普通西洋音楽で一つのまとまった曲と称するものにいろいろの形式がある。たとえば三部形式と称するものでは、その名の示すように三つの相次ぐ部分から成立している。たとえば第一の部分がある旋律によって表わされた一つの主題《テーマ》であるとすれば、第二の部分はこれと照応しまた対比さるべきものであり、これに次いで来る第三すなわち終局部では再び前の主題が繰り返される。またソナタ形式ならば、第一主題、第二主題の次にいわゆる発展部が来てこれら主題に対する解答を試みる。これが活躍した後に、再び始めの第一、第二主題が繰り返されて終局するのである。今連句歌仙の三十六句をたとえば(表六句)(裏と二の表裏合わせて二十四句)(名残《なごり》の裏六句)と分けて、これを三部形式あるいはソナタ形式にたとえてみることもできないことはないが、この対比はそれほど適切とは思われない。
 上記のような形式から成る「楽章」をさらに三つ四つと続けていわゆるソナタやシンフォニーを構成する。この組み立てのほうが連句の組み立てと比較するのにより適当であるように思われる。もっとも正当なソナタやシンフォニーのように四楽章から成る場合だと、第一章が通例早いテンポのソナタ形式のもの、第二章がいわゆるスロームーヴメントで表情豊かな唱歌形式のもの、第三章が軽快な舞踏曲のようなもので、往々|諧謔的《かいぎゃくてき》なスケルツォが使われる。第四章がたいてい急テンポのロンドやソナタ形式のものになっている。そこで今試みに歌仙の一つを取って考えてみると、少なくも私だけの感じでは、形式的にも最初の表六句は一つの楽章を作り、次に裏の十二句が又一つの楽章、次に二の表の十二句が第三楽章、そうして最後の六句が第四の終局楽章を形成していると言ってもたいした無理な比較ではないような気がするのである。この比較の当否は二段としても、試みにこういう考えを仮設してもう少し比較を進めてみたらどうなるか。
 まず第一楽章六句はおのずから温雅で重厚な気分に統一されている場合が多いようである。ここでは神祇《じんぎ》釈教恋無常の活躍は許されない。テンポで言えばまずアンダンテのような心持ちである。第二楽章十二句になるとよほど活発にあるいはパッショネートになって来て、恋をしたり子をかわいがったり大病をしたり坊主になったりする。しかし全体のテンポは私にはむしろ緩徐に感ぜられ、アダジオのような気持ちがする。ところが第三楽章の十二句になると、どうもだいぶ気が軽くなり行儀がくずれてはれた足[#「はれた足」に傍点]を縁へ投げ出したり物ごとにだだくさ[#「物ごとにだだくさ」に傍点]になったり隣家とけんかをしたり雪舟《せっしゅう》の自慢をしたりあばたの小僧をいやがらせたり、どうもとかくスケルツォの気分が漂って来る場合が多いようである。そうしてテンポも早くアレグロになり、時にはプレストにもなるようである。ところが最終の第四楽章に入ると、再びもとの静かさに帰る、そうして「花の座」が現われ、最後に、ゆるやかなあげ句で、ちょうど春の夕暮れのような心持ちで全編が終結するのである。これはもちろんラルゴかレントの拍子である。このように連句の場合では1と4が緩徐であるのに、音楽のほうでは1と4が急テンポである事自身がまたわれわれにおもしろい問題を提供するのであるが、これについてはあまりに岐路に入ることになるのでここには述べない。ただこの比較から得らるる一つの暗示は、歌仙の形式で芭蕉《ばしょう》以来の伝統的な形式とちがった、西洋音楽のそれのようなものをも作りうるのではないかということ、またこれと逆に俳諧の構造を音楽のほうに移して連句的な楽章配置をもったソナタやコンツェルトを作ることはできないかということである。これはただの暗示であるが、ともかくも一つの可能性を示唆するものであろうと思われる。
 元来この四楽章構成は決して偶然なものではなくて、ちょうど漢詩の起承転結などにも現われまた戯曲にも小説にも用いられる必然的な構成法であって特に連句のみに限られたことではないのであるが、しかしその構成要素の音楽的な点から見て連句の場合ほど適切なる比較を許すものは他にはないのである。
 さて上記の考え方では、連句の長句一つ、短句一つを、それぞれの一つの音に比較するという前提のもとに考えを進めたのであるが、これは多くの中の一つの考え方であって、唯一無二の考え方ではない。これよりももっと適切で有効な比較はいくらもあるであろう。たとえばわれわれは次のような比較を試みることもできる。
 前述のように連句中の一句一句をそれぞれの一つの音と見立てる代わりにこれよりはもう少し複雑な見方をすることもできる。元来一つの長句ならば長句の中には、実際いろいろな表象や観念が含まれていて、それらの結合によって一つの複雑な光景なり情緒なりが代表され描写されている。こういう見方からすれば、それらの一句中のいくつかの表象はそれぞれ一つずつの音のようなものであって、これが寄り集まって一つの「和弦《かげん》」のようなものを構成していると見られないことはない。もっとも、ただの一句でもそれを読む時の感官的活動は時間的に進行するので、決して同時にいろいろの要素表象が心に響くのではないが、しかし一句としてのまとまった感じは一句を通覧した時に始めて成立するのであるから、物理的には同時でなくても心理的には「同時」にこれらの各表象が頭に響くので、結局三つか四つの弦を同時に鳴らせた一つの和弦を聞くか、あるいは和弦を分解して交互に響かせるアルペジオを聞く場合と類似の過程である。つまり一つの句をたとえばピアノの譜で縦に重畳した若干の重音の串刺《くしざ》しに相当させることができる。これが大きな管弦楽ならばまたいっそう多数の音が重畳して来るわけであるが、連句の一句に同時に響いて来る表象情緒の重なり方の複雑さは、管弦楽などよりもいっそうウルトラの複雑さで到底数字や記号で表わさるべき程度のものではないのである。それでもわれわれはともかくもこの二つのものの和弦的《かげんてき》要素の比較にある意味を認めることだけはできるように思う。
 複音が相次いで進行する場合にそこにいろんな込み入ったいわゆる和声学《ハルモニー》上の規則が生まれて来る。これらを一々引き合いに出して連句の場合に付会しようとしても、それはおそらく始めから無理であるにきまっているが、しかし連句の相次ぐ二句の接触によって甲句に含むいろいろの組成要素と乙句に含むそれらとの関係から、いわゆる付き過ぎたり離れ過ぎたりする現象が起こって来る。これが和声学《ハルモニー》上のいろいろな規則とどこかに共通な原理を思わせるものがあるのである。たとえば和声《かせい》のほうで八度や五度の並行を忌むというのは、つまりあまりに付き過ぎて進行変化がなくなるのをきらうからである。また一方であまりに突飛な音の飛躍も喜ばれないのはつまり離れ過ぎを忌むのである。次から次と不即不離な関係で無理なく自由に流動進行することによってそこにベートーヴェンやブラームスが現われて活躍するのである。またあまりに美しい完全な和弦が連行すると単調になり退屈になるので適当な不協和音を適当に插入《そうにゅう》することによって、曲の変化と活気が生じる。それと同様に、歌仙でもあまり美しい上品なそして句調の平滑な句が続くと、すぐだれて来て活気がなくなる。われわれ初心の者の連句はとかくこうなりたがるのである。しかし古人のすぐれた連句と思うのをよく解剖してみると、どうもこの不協和音のようなものが巧みに插入されているように思われる。一句として見ても、また前句との付きぐあいから見ても、どうにもあまりぞっとしないと思われる句が七部集の中でもたくさんにある。それで一句一句しらみつぶしに解釈し批評して行く場合にはこれらの句はややもすれば罰点を付けられるのであるが、しかし上述のような考え方に従ってその句の近辺一帯の進行を通観した後にその一句の役目を考え直してみると、多くの場合にわれわれはこのやや劣勢なる不協和音的存在の価値を前とはちがった光のもとに見直すことがあるような気がする。芭蕉のごときこの道の大先達はおそらくこの点をかなりまで判然と意識し
前へ 次へ
全9ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング