るものの世界と連句の世界とは必ずしも一見そう思われるように全然かけ離れたものではなくて、ある一つの大きな全体の二つの部分であってその両者の間をつなぐべき橋梁《きょうりょう》の存在が可能であるということが想像されて来るのである。
「連作論」中に、左千夫《さちお》の問いに答えて子規が「俳句は総合的で複雑なものだから連作の必要がないが、短歌は連続的で単純なものであるから連作ができる」というような意味のことを言ったとある。これも後に述べるように解釈次第では一面の真をうがっていると思われるが、ただこの問答の中で子規があたかも連句というものの存在を全然忘却あるいは無視しているように見えるのが不思議である。(もっともこの問答の記事は左千夫氏が聞いたのを覚え書きにしたので多少の誤りがあるかもしれぬと断わってある)。しかしわれわれ初心の者が連句を作る際に往々一句の長句あるいは短句の内にあまりたくさんの材料を詰め込むためにかえって連句の体を失し、その結果付け句を困難ならしめることがあるのは、畢竟《ひっきょう》俳句と連句との区別を忘れるためであると感じることがしばしばある。こういう自分の体験と思い合わせて考
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