ないような立派な付け句であっても、心理的科学者の目から見ると明らかに打ち越しの深い影響を受けたと、少なくも疑われるものがあったとしてもなんの不思議はないわけである。
 試みに審美的のめがねをかなぐりすてて、一つの心理的なからくりの中の歯車や弾条《ばね》を点検するような無風流な科学者の態度で古人の連句をのぞいてみたらどうであろうか。まず前にも例示した『灰汁桶《あくおけ》』の巻を開いて見る。芭蕉の「あぶらかすりて」の次の次に去来の「ならべてうれし十の盃《さかずき》」が来るのである。ここで、いったい去来という人の頭の中に、ありとあらゆる天地万有のうちから、物もあろうに特に選ばれてこの「盃」というものの心像がどうしてまさにここに浮かび上がったかと考えてみなければならない。前句は新畳《あらだたみ》を敷いた座敷である、それを通して前々句を見るとそこには行燈《あんどん》があり、その中から油皿《あぶらざら》の心像がありありと目に見える。その皿が畳の上におりて来る、見ているうちにその油皿が盃に変わって来る。次に一つの盃がばらばらと分殖してそこに十個の皿がずらりと並列する。それに月光がさして忽然《こつぜん
前へ 次へ
全88ページ中60ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング