ていて、そうしてこれらの悪句を巧みに拾い上げて插入し活用したのかもしれない。試みにこれらのへんな句やいやな句を抹殺《まっさつ》してそれを美しいやさしいさびしおりにみちた句ばかりに作り変えることができたとする。そうしてみた後にわれわれは、事によると、せっかくのその修正の成果が意外にも単調一律なよそ行きの美句の退屈なる連鎖になりおおせたことを発見して茫然《ぼうぜん》自失するようなことになりはしないか。
連句と音楽とのいろいろな並行性を考えるときに、いつも私の痛切に感じる一つの点は、歌仙の終局の数句の推移の感じが実によく楽曲の終節の感じに似ていることである。曲の最後に打ち止めの主和弦《しゅかげん》が端然として響く前にあらかじめ不協和な一団の音群があって、それから最後の和弦への推移がいわゆる「解決《アウフレーズング》」によってきわめて自然に行なわれて、たとえば肩の凝りがすうととけるように感じる、そうしてそれによって終局|安堵《あんど》の感じが明瞭《めいりょう》に印銘される。ところが連句の最後の花の座の直前一二句の複雑な曲折から、花の座を経過して最後の短句に入ってゆるやかに静かに終局するあの心
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