《ナハビルド》のようなものと、次に来る乙との間のある数量的な関係で音の協和不協和が規定されることだけは確実である。連句の場合にはもちろん事がらが比較にならぬほどあまりに複雑であって、到底音の場合などとの直接の比較は許されないが、ただ甲句を読み通した後に脳裏に残る余響や残像のようなものと、次に来る乙句の内容たる表象や情緒との重なりぐあいによって、そこに甲乙二句一つ一つとはまた別なある物が生まれ、これが協和不協和の感を与えることだけは確実である。この二つのものの接触によって生まれる第三の新しいもの、すなわち「音程」というものに相当するものがちょうど連句の場合の「付け味」になると考えることもできる。
 今ただ二つの音の連続だけでは旋律はできあがらないと同様に、ただ一対の長句と短句だけでは連句はできない。いろいろな音程が相次いで「進行」して始めて一つの旋律一つの節回しができ、そうすることによってそこにほとんど無際限な変化の自由が生ずるのである。普通のわれわれの音楽で使われる音程の数は有限な少数であるのに、実際これからあらゆる旋律、たとえば追分節《おいわけぶし》も生まれればチゴイネルワイゼンも生
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