い》」の「あつ風呂《ぶろ》」が出現した感がある。また同じ「夕飯」がまだまだ根を引いて「木曾《きそ》の酢茎《すぐき》」に再現しているかの疑いがある。また後に自分の「田の青やぎていさぎよき」の心像が膠着してそれが六句目の自句「しょろしょろ水に藺《い》のそよぐらん」に頭をもたげている。しかしこれは決して凡兆という人の特異の天分を無視してこの人をこれだけの点から非難する意では毛頭ないのである。この人の句がうまく適度に混入しているために一巻に特殊な色彩の律動を示していることは疑いもないことであるが、ただもし凡兆型の人物ばかりが四人集まって連句を作ったとしたらその成績はどんなものであるかと想像してみれば、おのずから前述の所論を支持することになるであろうと思われるのである。
以上は単に便宜上主として『灰汁桶』だけについて例証したのであるが、読者にしてもし同様の見地に立って他の巻々を点検するだけの労を惜しまれないならば、私のここに述べた未熟な所論の中に多少の真の片影のあることを認めてもらえるであろうと信ずる。
連句制作における興味ある心理的現象は以上にとどまらない。次にはさらに別の方面について所見をのべて読者の叱正《しっせい》を待つこととする。
いわゆる連想のうちには、その互いに連想さるべき二つの対象の間に本質的に必然な関係のあるものも多数にある。たとえば、硯《すずり》と墨とか坊主と袈裟《けさ》とか坊主と章魚《たこ》とかいうように並用共存の習慣あるいは形状性能の類似等から来るものもあり、あるいは貧と富、紅と緑のような対照反立の関係から来るものもある。しかしこれらはかなりまですべての人間に共通普遍なもので、従ってすべての人に理解さるべき客観性をもっているのである。しかるにまた一方ではそういう普遍性を全くもたない個人的に特有な連想によって連結された観念の群あるいは複合《コンプレッキス》とでも称すべきものがある。これは多くはその一人一人の生涯《しょうがい》特に年少時代において体験した非常に強烈な印象に帰因するものであって、特に性的な関係のものが多いという話である。そういう原因は今ここでは別問題として、われわれが連句を制作するに当たって潜在的に重要な役目をつとめる観念群のうちには普遍的でなくて全く個人的なものが時々出現し、そうしてそれが一度現われだすと習慣性を帯びて来て、何度となく同じ一巻の中にさえも現われ、また特にその後に作る他の巻の中に再現したがるものである。
この種の観念群の中には、普遍性はないまでも個人個人にはともかくも事件的の連関の記憶が現存していて、それを説明しさえすれば他人も納得するような種類のものも多いが、しかしまた中には自分自身に考えてもどうしても二つのものの間の連鎖が考えられないようなものがないでもない。たとえば、私が鮓《すし》を食うときにその箸《はし》にかび臭いにおいがあると、きっと屋形船に乗って高知《こうち》の浦戸湾《うらとわん》に浮かんでいる自分を連想する。もちろんこれは昔そういう場所でそういう箸《はし》で鮓《すし》を食った事があるには相違ないが、何ゆえにそういう一見|些細《ささい》なことがそれほど強い印象を何十年後の今日までもとどめているのであるか、これには現在の自分には到底意識されない理由があるに相違ないのである。その理由は別問題としてこういう私の頭の中だけにある観念群は連句制作の場合にはかなり重要な役目をつとめることができる。たとえば「屋形船」を題材とした前句に付け合わせようというような場合が起こったとする。その時私はすぐに「鮓」を思い出してそれを足場にした付け句を案じるであろう。そうしてその時同時に頭に浮かんだ「箸」の心像をそこで抑圧しておくと、それがその後の付け句の場合にひょっくり浮かび上がって来て何かの材料になることもありうるであろう。
こういう事は古人の立派な連句にもありはしないかと思って、手近な、そうしてなるべく手数のかからないような範囲内で少しばかり当たってみた。しかしちょうど今言ったような場合の好適例はまだ見いださないのであるが、そのかわりに個々の作者についていろいろな観念群とでも名づくべきものの明白に見えるものを発見することはできた。
たとえば岩波文庫の芭蕉連句集の(五一)と(五二)の中から濁子《じょくし》という人の句ばかり抜き書きしてみると、「鵜船《うぶね》の垢《あか》をかゆる渋鮎《しぶあゆ》」というのがあってそこに「鳥」と「魚」の結合がある。ところが同じ巻の終わりに近く、同人が「このしろを釣《つ》る」という句を出してその次の自分の番に「水鶏《くいな》の起こす寝ざめ」を持ち出している。これだけならば不思議はないのであるが、次の巻のいちばん初めのその人の句が「卵産む鶏《とり》」であって、その
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