》と清談の会席が眼前に現われる。こういったような心像変換の現象は少なくもわれわれの夢の中には往々起こる現象であっておそらく何人も経験するところであろう。しかし、私は当時の去来の頭の中にここに私の書いたこのとおりの心理過程が進行したのであろうと臆測《おくそく》するわけでは決してない。またこういう見方をする事がこの付け句の「鑑賞」の上に有利だというのでも毛頭ないのである。前にも断わったとおり「鑑賞の心理」と「創作の心理」とを少なくもいったんはっきり区別した上で、後者の分析的研究をするための一つの方法を例示するという目的以外には何物もないのである。それかと言ってこれはまた決して私の机上でこね上げた全くの空想ではないのであって、私自身が平常連句制作当時自分の頭の中に進行する過程を内省することによって常に経験するところの現象から類推して行った一つの「思考実験」であるので、これはおそらく連句の制作に体験ある多くの人によって充分正当なる意味において理解してもらえることであろうと思う。
こういうふうの見方からすると、これと同様な実例ははなはだ多くて枚挙にいとまないくらいである。同じ巻でも「子《ね》の日」と「春駒《はるこま》」、「だびら雪」と「摩耶《まや》の高根に雲」、「迎いせわしき」と「風呂《ふろ》」、「すさまじき女」と「夕月夜|岡《おか》の萱根《かやね》の御廟《ごびょう》」、等々々についてもそれぞれ同様な夢の推移径路に関すると同様の試験的分析を施すことは容易である。
こういうふうの意味でのアタヴィズムはむしろあるところまでは避くべからざることであるのはもちろん、連句の進行上少しも規約的に不都合なことはないのみならず、ある場合にはむしろテンポの調節上からも必要な場合があるかもしれない。しかし少なくも私の見たところで、こういう関係になっていない実例もまたはなはだ多いのである。たとえばやはり同じ『灰汁桶《あくおけ》』の巻で、芭蕉の「蛭《ひる》の口処《くちど》をかきて気味よき」や「金鍔《きんつば》」や「加茂の社」のごときはなかなか容易に発見されるような歯車の連鎖を前々句に対して示さない。また『鳶《とび》の羽』の巻でも芭蕉の「まいら戸」の句「午《ひる》の貝」の句のごとき、なんでもないような句であるが完全にこのアタヴィズムの痕跡《こんせき》を示さない。これに対して史邦《ふみくに》の「墨絵」は前々句の師匠の「まいら戸」の遺伝を濃厚に受けており、同人の「おもい切ったる死にぐるい」がやはり前々句の去来の「いまや別れの刀さし出す」の純然たる申し子であるがごときはなかなか興味ある事実である。
まだ充分数量的に調べたわけでないから確実なことは言われないのであるが、どうも芭蕉はやはり他の人に比して特別にこのアタヴィズムの痕跡を示した例が少ないように思われる。だれか時間の自由をもつ人が統計的にこの点を調べてみたらおもしろい結果を得られはしないかと想像するのである。
それはとにかく、だいたいの進行の上からいうと、この種のアタヴィズムでも原則としては避けたほうがよいではないかと思われる。しかしこれはいかにすれば避け得られるか。これは理論上からは必ずしもそう困難なことではなく、前述のような分析を行なった上で、その疑いのあるものは淘汰《とうた》して他に転ずるかあるいはまた前に述べたこともあるとおり、かくして不合格になったものを仮想的第二次前句と見立ててこれに対する付け句を求め、それでもいけなければこれに対する第三次の付け句を求め、漸次かくのごとくして打ち越しの遺伝を脱却すればよいわけであろう。しかし自由にこのような進化を遂げうるためには作者の頭がかなり広大な領土を所有している上にその頭の働きが自由に可撓性《フレキシブル》であって自分自身の考えの死骸《しがい》の上を踏み越え踏み越え進行しうるだけの能力をもっているということが必要条件である。芭蕉のごときはそれがかなりよくできる人であったことは以上の乏しい例証からもうかがわれる。芭蕉の辞世と称せられる「夢は枯れ野をかけ回《めぐ》る」という言葉が私にはなんとなくここに述べた理論の光のもとにまた特別な意味をもって響いて来るのである。彼はこのように夢を駆逐することに喜びと同時に大いなる悲しみをいだいて死んで行ったであろう。
この頭の働きの領土の広さと自由な滑脱性とに関して芭蕉と対蹠的《アンチポーダル》の位置にいたのはおそらく凡兆のごとき人であったろう。試みにやはり『灰汁桶《あくおけ》』の巻について点検すると、なるほど前句「摩耶《まや》」の雲に薫風を持って来た上に「かますご」を導入したのは結構であるが、彼の頭にはおそらくこの「夕飯《ゆうめし》のかますご」が膠着《こうちゃく》していてそれから六句目の自分の当番になって「宵々《よいよ
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