必ずしも無用のわざではあるまいと考える。
右の「連作論」においていわゆる連作の最始のものとして引用されている子規《しき》の十首、庭前の松に雨が降りかかるを見て作ったものを点検してみると、「松の葉」という言葉が六回、「松葉」が一つ、「葉」が七、「露」が九、「雨」が三、「玉」が六、「こぼれ」という三字が五回、「落ち」「落つ」が合わせて三、「おく」が七、「枝」が四回繰り返されている。これをかなの数にして合計すると百十字で、全体三百十字の三分の一を超過している。それでこの十首より成る一群の内容は「松の葉に雨の露が玉のごとくにおいて、それがこぼれ落ちる」というだけのことを繰り返し繰り返し諷詠《ふうえい》したものであって、連作としてはおそらく最も単純な形式に属するものであろうと思われる。そうして、たとえば「松の葉」の現われる位置がほとんど初五字かその次の七字の中かにきまっており、「露」はだいたい一首の中ごろの位置に現われ、「玉」は多く一首の終わりに近く現われている。それでこれはたとえて言わば簡単な唱歌の同じ旋律を繰り返し繰り返し歌うようなものであって、同じものが繰り返さるることによって生ずる一種の味はなくはないであろうが、しかしこういうものばかりが続いてはおそらく倦怠《けんたい》を招くに相違ない。
次に「連作論」に引用された「病牀即事《びょうしょうそくじ》」を詠じた十首は、もう少し複雑になっている。「月」は毎句にあり、「ガラス戸」が六、「鳥かごの屋根」と「森」と「ランプ」が各二あるが、そのほかにもいろいろの景物が点綴《てんてつ》され、ほととぎすや白雲や汽車やブリキや紙や杉木立《すぎこだ》ちやそういうものの実感が少しずつ印象され、また動作や感覚の上でもだいぶ変化が見えている。また毎句にある「月」でも一首の頭からおわりまでいろいろの位置に分配されているのに気がつく。この場合では、一つの場所の光景をいろいろな角度に見たスケッチを総合したような形式になっている。
その次に引用された十首は春秋の草花に対して自分の病の悲しみを詠じたものであるが、これには異種の植物名が八つとほかに「秋草花」という言葉が現われ、「春」の字が三、「秋」が二、そうして十首のおのおのにいろいろな形で病者の感慨が詠《よ》み込まれている。これは共通な感じを糸にしていろいろの景物を貫ぬいた念珠のような形式である。
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