」は前々句の師匠の「まいら戸」の遺伝を濃厚に受けており、同人の「おもい切ったる死にぐるい」がやはり前々句の去来の「いまや別れの刀さし出す」の純然たる申し子であるがごときはなかなか興味ある事実である。
まだ充分数量的に調べたわけでないから確実なことは言われないのであるが、どうも芭蕉はやはり他の人に比して特別にこのアタヴィズムの痕跡を示した例が少ないように思われる。だれか時間の自由をもつ人が統計的にこの点を調べてみたらおもしろい結果を得られはしないかと想像するのである。
それはとにかく、だいたいの進行の上からいうと、この種のアタヴィズムでも原則としては避けたほうがよいではないかと思われる。しかしこれはいかにすれば避け得られるか。これは理論上からは必ずしもそう困難なことではなく、前述のような分析を行なった上で、その疑いのあるものは淘汰《とうた》して他に転ずるかあるいはまた前に述べたこともあるとおり、かくして不合格になったものを仮想的第二次前句と見立ててこれに対する付け句を求め、それでもいけなければこれに対する第三次の付け句を求め、漸次かくのごとくして打ち越しの遺伝を脱却すればよいわけであろう。しかし自由にこのような進化を遂げうるためには作者の頭がかなり広大な領土を所有している上にその頭の働きが自由に可撓性《フレキシブル》であって自分自身の考えの死骸《しがい》の上を踏み越え踏み越え進行しうるだけの能力をもっているということが必要条件である。芭蕉のごときはそれがかなりよくできる人であったことは以上の乏しい例証からもうかがわれる。芭蕉の辞世と称せられる「夢は枯れ野をかけ回《めぐ》る」という言葉が私にはなんとなくここに述べた理論の光のもとにまた特別な意味をもって響いて来るのである。彼はこのように夢を駆逐することに喜びと同時に大いなる悲しみをいだいて死んで行ったであろう。
この頭の働きの領土の広さと自由な滑脱性とに関して芭蕉と対蹠的《アンチポーダル》の位置にいたのはおそらく凡兆のごとき人であったろう。試みにやはり『灰汁桶《あくおけ》』の巻について点検すると、なるほど前句「摩耶《まや》」の雲に薫風を持って来た上に「かますご」を導入したのは結構であるが、彼の頭にはおそらくこの「夕飯《ゆうめし》のかますご」が膠着《こうちゃく》していてそれから六句目の自分の当番になって「宵々《よいよ
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