しかしこれだけの関係ではあまりに二句の間の縁が近すぎ姿が似すぎて結果はいわゆる付き過ぎである。むしろ一つの非常に精巧な器械の二つの部分が複雑きわまる隠れた仕掛けで連結していて、その一方を動かすと他方が動きまた鳴りだすような関係である。それほどの必然さをもって連結されていて、しかもその途中のつながりが深い暗い室の中に隠れているような感じを与えるものが連句の上乗なものでありはしないかと思うのである。
これについて思い出すのは近ごろの心理分析学者ことにフロイドの夢の心理に関する考察である。夢は東洋では五臓の疲れなどと言われ、また取り止めもないものの代表者としてあげられ、また一方では未来の予言者としてだいじに取り扱われもした。西洋でも同様であったらしい。しかしいわゆる「夢判断」はフロイドの多年の研究によって今までとはちがった意味をもって甦生《そせい》し、迷信者の玩弄物《がんろうぶつ》であったものがかえってほとんど科学的に真な本能的の「我れ」を読み取る唯一の言葉であるように思われて来たのである。顕在的なる「我れ」のみの心理を学んで安心していたわれわれは、この夢の現象から潜在的「我れ」の心を学び知って、愕然《がくぜん》として驚きまた恐れなければならなくなったようである。そうして私はまたこの夢の心理なるものがはなはだしく連句の心理に共有なる諸点を備えていることを発見して驚かなければならないのである。
フロイドの考えでは顕在的な「夢内容」の底には潜在的な「夢思想」なるものが流動している。前者の表面的な並列はいわゆる夢のような幻影の無意味な行列に過ぎないのであるが、これらの「夢内容」を形成する象形文字のような影像を一つ一つ夢思想の国のこれに相当する言葉に翻訳してみれば、それはちゃんとした文章となり、そうしてそれは驚くべくおそるべきわが内部生活の秘密を赤裸々に記述するものとなるのである。しかもその一つ一つの象形文字のような夢内容は驚くべく多様な夢思想の圧縮されたエッセンスであり、またはなはだしく複雑な夢思想の網目の接合点である。それらの接合点のうちでも、その人のその日の、その前日の、また生涯《しょうがい》の経験――意識的ないし無意識的――の最も多くを結びつけるに都合のいいような、そういう特別な接合点が、その夜の夢の内容の一つとして象形文字的に選ばれて現われて来るのである。たとえばフ
前へ
次へ
全44ページ中23ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング