おとなしいようでもあるが、これを次に来る野坡の二句「藪越《やぶご》しはなす秋のさびしき」「御頭《おかしら》へ菊もらわるるめいわくさ」の柔らかく低いピッチに比べると、どうしても違った積極的主動的の音色を思わせる。なんとなく、たとえば芭蕉がヴァイオリン、野坡《やば》がセロとでもいったような気がするのである。それから「娘を堅う人にあわせぬ」と強く響くあとに「奈良通《ならがよ》い同じつらなる細元手」と弱く受ける。「ことしは雨のふらぬ六月」(芭)はちょっと見るとなんでもないようで実ははなはだしくきつく響いており、「預けたるみそとりにやる向こう河岸《がし》」(野)は複雑なようで弱い。「ひたといい出すお袋の事」と上がれば「よもすがら尼の持病を押えける」と下がるのである。……こういうふうに全編を通じて見て行っても芭蕉と野坡の「音色」の著しいちがいはどこまでも截然《せつぜん》と読者の心耳に響いて明瞭《めいりょう》に聞き分けられるであろう。同じように、たとえば「炭俵」秋の部の其角《きかく》孤屋《こおく》のデュエットを見ると、なんとなく金属管楽器と木管楽器の対立という感じがある。前者の「秋の空尾の上《え》の杉《すぎ》に離れたり」「息吹きかえす霍乱《かくらん》の針」「顔に物着てうたたねの月」「いさ心跡なき金のつかい道」等にはなんらか晴れやかに明るいホルンか何かの調子があるに対して「つたい道には丸太ころばす」「足軽の子守《こもり》している八つ下がり」その他には少なくも調子の上でどことなく重く濁ったオボーか何かの音色がこもっている。最後にもう一つ「猿蓑《さるみの》」で芭蕉|去来《きょらい》凡兆《ぼんちょう》の三重奏《トリオ》を取ってみる。これでも芭蕉のは活殺自由のヴァイオリンの感じがあり、凡兆は中音域を往来するセロ、去来にはどこか理知的常識的なピアノの趣がなくはない。
 しかしこういう見立てのようなことはもちろん見る人によっていろいろちがいうるものであり、なんら絶対普遍的価値のないものである。従って、そういう無理な比較を列挙するのがここの目的ではない。ただこういう仮設的な比較によって、連句におけるいろいろな個性の対立ということがいかに重要なものであるかを理解するための一つの展望的見地を得ようとするに過ぎないのである。
 こういうふうに考えて来た後に、連句のうちでも独吟というものにどうもあまりお
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