の一句に同時に響いて来る表象情緒の重なり方の複雑さは、管弦楽などよりもいっそうウルトラの複雑さで到底数字や記号で表わさるべき程度のものではないのである。それでもわれわれはともかくもこの二つのものの和弦的《かげんてき》要素の比較にある意味を認めることだけはできるように思う。
複音が相次いで進行する場合にそこにいろんな込み入ったいわゆる和声学《ハルモニー》上の規則が生まれて来る。これらを一々引き合いに出して連句の場合に付会しようとしても、それはおそらく始めから無理であるにきまっているが、しかし連句の相次ぐ二句の接触によって甲句に含むいろいろの組成要素と乙句に含むそれらとの関係から、いわゆる付き過ぎたり離れ過ぎたりする現象が起こって来る。これが和声学《ハルモニー》上のいろいろな規則とどこかに共通な原理を思わせるものがあるのである。たとえば和声《かせい》のほうで八度や五度の並行を忌むというのは、つまりあまりに付き過ぎて進行変化がなくなるのをきらうからである。また一方であまりに突飛な音の飛躍も喜ばれないのはつまり離れ過ぎを忌むのである。次から次と不即不離な関係で無理なく自由に流動進行することによってそこにベートーヴェンやブラームスが現われて活躍するのである。またあまりに美しい完全な和弦が連行すると単調になり退屈になるので適当な不協和音を適当に插入《そうにゅう》することによって、曲の変化と活気が生じる。それと同様に、歌仙でもあまり美しい上品なそして句調の平滑な句が続くと、すぐだれて来て活気がなくなる。われわれ初心の者の連句はとかくこうなりたがるのである。しかし古人のすぐれた連句と思うのをよく解剖してみると、どうもこの不協和音のようなものが巧みに插入されているように思われる。一句として見ても、また前句との付きぐあいから見ても、どうにもあまりぞっとしないと思われる句が七部集の中でもたくさんにある。それで一句一句しらみつぶしに解釈し批評して行く場合にはこれらの句はややもすれば罰点を付けられるのであるが、しかし上述のような考え方に従ってその句の近辺一帯の進行を通観した後にその一句の役目を考え直してみると、多くの場合にわれわれはこのやや劣勢なる不協和音的存在の価値を前とはちがった光のもとに見直すことがあるような気がする。芭蕉のごときこの道の大先達はおそらくこの点をかなりまで判然と意識し
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