ない。
 現代において行なわれておりあるいは行なわれうべき質的研究は必ずしも初めから有益でありおもしろいとは限らない。十中八九は実際おそらくなんらの目立った果実を結ぶことなく歴史の闇《やみ》に葬られるかもしれない。しかしそういうものはいくらあっても、決して科学の進歩を阻害する心配はないのである。科学という霊妙な有機体は自分に不用なものを自然に清算し排泄《はいせつ》して、ただ有用なるもののみを摂取し消化する能力をもっているからである。しかしもしも万一これら質的研究の十中の一から生まれうべき健全なるものの萌芽《ほうが》が以上に仮想したような学風のあらしに吹きちぎられてしまうような事があり、あるいは少しの培養を与えさえすればものになるべきものを水をやらないために枯死させてしまうようなことがあったとしたら、それはともかくも科学の進歩をたとえ一時であっても、遅滞させるというだけの悪い効果はあるであろう。そういう事が現代にあるかないかを考慮してみる必要はないであろうか。まさかそれほどのことはないとしても、それに似た傾向はありはしないかを考えてみるほうがよくはないか。
 ずっと昔から質的にしか知られていないような現象の研究には通例異常な困難が伴なう。結局の目的はやはりこれらを量的分析にかけるにあるが、現象のいかなる相貌《そうぼう》をつかまえてこれにそのような分析を加えるべきかの手掛かりを得るに苦しむのが常である。それが困難であればこそ従来の自然探究者から選み残され継子《ままこ》扱いにされて昔のままにわれわれの眼前にそのだらしのない姿を横たえているのである。しかし一方ではまた、だれもそういう現象の量的の取り扱いが不可能だということの証明をした人もないのである。「永久運動」や「角の三等分」の問題とはおのずからちがった範疇《はんちゅう》に属するものであることは明らかであると思われる。
 こういう種類の問題の一例は、おなじみのリヒテンベルクの放電像のそれである。この人が今から百何十年前にこの像を得た時にはたぶん当時の学者の目を驚かせたに相違ないのであるが、それがその後の長い年月の間にただ僅少《きんしょう》な物好きな学者たちの手で幾度となく繰り返され、少しずつ量的分析へのおぼつかない歩みをはこんでいただけであった。やっと近年になってこの現象が電気動力線の瞬時的高圧の測定に利用されそうだとい
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