決定されるわけであるが、遺憾ながらまだだれもそこまで研究をした人はないようである。しかし「涼しさは暑さとつめたさとが適当なる時間的空間的週期をもって交代する時に生ずる感覚である」という自己流の定義が正しいと仮定すると、日本における上述の気候学的地理学的条件は、まさにかくのごとき週期的変化の生成に最もふさわしいものだといってもたいした不合理な空想ではあるまいかと思うのである。
 同じことはいろいろな他の気候的感覚についてもいわれそうである。俳句の季題の「おぼろ」「花の雨」「薫風《くんぷう》」「初あらし」「秋雨」「村しぐれ」などを外国語に翻訳できるにはできても、これらのものの純日本的感覚は到底翻訳できるはずのものではない。
 数千年来このような純日本的気候感覚の骨身にしみ込んだ日本人が、これらのものをふり捨てようとしてもなかなか容易にはふりすてられないのである。昔から時々入り込んで来たシナやインドの文化でも宗教でも、いつのまにか俳諧《はいかい》の季題になってしまう。涼しさを知らない大陸のいろいろな思想が、一時ははやっても、一世紀たたないうちに同化されて同じ夕顔棚《ゆうがおだな》の下涼みをするようになりはしないかという気がする。いかに交通が便利になって、東京ロンドン間を一昼夜に往復できるようになっても、日本の国土を気候的地理的に改造することは当分むつかしいからである。ジャズや弁証法的唯物論のはやる都会でも、朝顔の鉢《はち》はオフィスの窓に、プロレタリアの縁側に涼風を呼んでいるのである。
 この日本的の涼しさを、最も端的に表現する文学はやはり俳句にしくものはない。詩形そのものからが涼しいのである。試みに座右の漱石句集から若干句を抜いてみる。

[#ここから3字下げ]
顔にふるる芭蕉《ばしょう》涼しや籐《とう》の寝椅子《ねいす》
涼しさや蚊帳《かや》の中より和歌《わか》の浦《うら》
水盤に雲呼ぶ石の影涼し
夕立や蟹《かに》這《は》い上る簀《す》の子《こ》縁《えん》
したたりは歯朶《しだ》に飛び散る清水《しみず》かな
満潮や涼んでおれば月が出る
[#ここで字下げ終わり]

 日本固有の涼しさを十七字に結晶させたものである。
「涼しい顔」というものがある。たとえば収賄の嫌疑《けんぎ》で予審中でありながら○○議員の候補に立つ人や、それをまた最も優良なる候補者として推薦する町内の有志
前へ 次へ
全6ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング