帳に亮の妻が亮の寝顔を写生したのがあるが、よく似ていて、そしてやつれはてているのがさびしい。去年の春から悪くなって、五月に某病院に入院するとまもなくなくなった。臨終は平穏であった。みんなに看護の礼を言って暇《いとま》ごいをして、自分の死後妻には自由を与えてやってくれと遺言して、静かに息を引きとったそうである。
 急を聞いて国へ帰っていた亮《りょう》の弟からその時の詳しい様子を聞いた時に、私はなんだかほっとしたような心持ちがした。ほとんど予期されていた亮の最後が、それほど安らかで静かで美しいものであったと知った時には、思わず「それはよかった」といったような不倫な言葉が自然に口から出た。そうしてそのあとから水のにじみ出るようなさびしさが襲って来るのであった。
 散るべくしてわずかに散らないでいた桐《きり》の一葉が、風のない静かな夕べにおのずから枝を離れて落ちたような心持ちがした。自分の魂の一部分がもろく欠け落ちて永久に見失われたというような心持ちもした。
 亮《りょう》の死の報知が伝わった時に、F町の知友たちは並み並みならぬ好意を故人の記念の上に注いでくれた。生前から特別な恩典を与えて心安く療養をさせてくれた学校当局は、さらに最後の光栄を尽くさしてくれた。親しかった人々は追悼会や遺作展覧会を開いてくれ、またいろいろの余儀ない故障のために親戚《しんせき》のものだれ一人片付けに行く事のできなかった遺物の処理までも遺憾なく果たしてくれた。そしてこの処理の中に一通りならぬ濃まやかな心づかいのこもっているのを感じないわけには行かなかった。
 そのほかの知友の中でも、中学時代からの交遊の跡を追懐した熱情のこもった弔詞を寄せられた人や、また亮が読むべくしてついに読む事のできなかった倉田《くらた》氏の著書の巻頭に懇篤な追悼文を題して遺族に贈られた人もあった。
 私はここでそういう人々の名前をあげて感謝の意を述べたいような気がする。しかし私の頭にある故人のある資質を考えると、かえってそうしないほうがよいようにも思う。
 ただそれらの人たちに対する遺族や一門の厚い感謝の念は、故人の記憶の消えない限り消える事はあるまい。
 年取って薄倖《はっこう》な亮《りょう》の母すらも「亮は夭死《ようし》はしたが、これほどまでに皆様から思っていただけば、決してふしあわせとは思われない」とそう言っている。私もほんとうにそう思う。
 これだけの好意を人から寄せられるには、やはりよせられるだけのある物があったに相違ない。そのある物がこの世に残っている限り、死ぬという事はそんなにさびしい事ではあるまい。
 亮には一人の子供もなかった。そして子供をほしがっていた時代もあった。死の迫るを知った時になってどう思ったかわからないが、ただなんとなくそれがさびしくはなかったかと思う。
 亮《りょう》はたしかに弱い男には相違なかった。しかし自分の弱さと戦う戦士としては決して弱くなかった。平静な水面のような外見の底に不断に起こっていた渦巻《うずまき》がいかに強烈なものであったかは今私の手もとにある各種の手記を見ればわかる。そういう意味で亮は生まれつき強い人々よりも幾倍も強い男であったかもしれない。
 亮のような柔らかい心臓と彼のような透明な脳とを同時にもって生まれるという事は、現世にあっては不幸な事かもしれない。防御のない急所を矢弾《やだま》の雨にさらすようなものかもしれない。その上にまた亮は弱い健康には背負いきれない「生」の望みを背負っていた。そういう不調和の結合から来るいろいろの苦悩は早くから亮の心を宗教に向かわせた。始めはキリストの教えを通ってついには親鸞《しんらん》の門にはいった。最後にどこまで進んでいたかはわからないが、ただ彼の短い生涯《しょうがい》が決してそれほど短いものでなかったという事だけは言えるように思う。
[#地から3字上げ](大正十一年五月、明星)



底本:「寺田寅彦随筆集 第二巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1947(昭和22)年9月10日第1刷発行
   1964(昭和39)年1月16日第22刷改版発行
   1997(平成9)年5月6日第70刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年6月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング