ながら、そのものに対する責任は尽くして行くといったような態度や弱き者に対する軽侮の笑いに対しては、生きている私は屈辱を感ぜずにはいられなかった。」
私はここまで読んだ時に、当時の自分のどこかに知らぬ間に潜んでいた弱点を見抜かれたような気がして冷や汗が流れた。
その次にまたこんな事がかいてある。
「自分を発展しなくてはやまない活力、これが人生を楽しむ要素である。」
亮《りょう》がどうしてこうはげしい神経衰弱にかかったかは私にはよくわからない。一つはそのころひどく胃が悪くて絶えず痛んでいたという事が日記の中にも至るところに見いだされ、またいつであったか一度は潰瘍《かいよう》の出血らしいものがあったという話を聞いているから、この病気のためもあったに相違ない。実際その前から胃弱のためにやせこけて、人からは肺病と思われていた。
この記事より二年前明治四十二年十一月を起点とした「どうなりゆくか」と題した彼の日記の最初のページからもうこの胃痛の記事が出て来る。そして学校の不愉快、人に対する不平、自己に対する不満、そういう感情の叙述と胃の痛みの記事とが交錯して出てくる。
しかしこの消化器病のほかに亮を悩ましていた原因もいろいろないではなかった。それは、第一には父の春田が当時不治の病気にかかっていた事である。私は海外へ出ていてほとんど何事も知らずにいたが、日記を見るとそれに関する亮《りょう》の煩悶《はんもん》のようなものがいくらかうかがわれる。四十二年十一月七日のには、
「……近ごろ身内のものから手紙が来ると、父の病気が悪くなったのかとなんだか恐ろしい。……父の病気に対して、私の心持ちは、ただなんだか恐ろしいというにとどまる。それでいつも考えまい考えまいと努め、またそうしていられる。見舞いの手紙も一度も出した事はない。不孝の子だ。……」
「弟と通りを散歩しながら、いつになく、自分の感情の美しからざる事などを投げ出すように話した。おれは自分をあわれむというほかに何も考えない。こんな事を言った。そして弟の前に自分を踏みつけた時に少し心の安まるような心持ちがした。しかしこの絶望の声に対して少しの同情を期待したというような弱い心持ちもあったようだ。……自分は自分の生命を左右するような大事は、恐れて忘れよう忘れようとつとめる。そして日々 trifles によって苦しめられている。」
「高等学校の校医の○○も、○○という体操教師も『君のにいさんはとても高等学校もよう卒業しまいと思っていたが、大学へ行くようになったから、存外かまわないものだ』と言ったと弟が話した。それを聞いてなんだか一種自分というものに対する責任が多少軽くなったような安心を覚えた。」
第二第三の原因らしいものも考えられない事はないが、それらはここには書かない。
亮《りょう》は自分の事を頭が悪い悪いと言っていた。しかし私の見るところでは、むしろ珍しいくらいいい透徹した頭脳をもっていたように思われる。かなり複雑な科学上の事実や理論でも気持ちのいいように急所をのみ込んだ。世間に起こっているいろいろな出来事でも、その事がらの表面に現われている現象よりも、その現象の底にある原動力のほうにすぐに目をつけていた。他人の言行でもそれを通して直接に腹の中を見透していた。そういう敏感さは子供の時分からすでにあったのが、病気のためにいっそう著しく病的に敏感になっていたように思う。それだから、他人はもちろん肉親の人々やまた自分自身のでも、胸の奥底にある少しの黒い影でも見のがす事ができなかった。そしてそういう美しくないものに対する極端な潔癖は、人に対し自分に対する無心な純な感情の流露を妨げた。そうしてまたそのような感情の拘束の自覚が最もきびしく彼を苦しめ悩ましていたように見える。しかし人一倍美しいやさしい感情を持っていなかったのであったら、このような煩悶《はんもん》はおそらく有り得なかったのではあるまいか。罪は頭のいい事にあった。もう少し頭が悪かったら、亮《りょう》はどんなに気らくであったろう。
こういう不安と煩悶《はんもん》をいだきつつ、学校へ出ては発酵化学の実験をやり、バクテリヤの培養などをやっていた。そして夜は弟と二人で、よく寄席《よせ》や芝居や活動を見に行って、やるせない心のさびしさを紛らせようとしていたらしい。胃の痛むのによく蕎麦《そば》や汁粉《しるこ》を食ったりしては、さらに自分に対する不満を増していたように見える。
「本日は弟と歌舞伎座《かぶきざ》に行く事になっていた。――父の病気に対する『愛なき恐れ』、金に対する不安、母の辛苦、不孝のために失われたる親子の愛情、学業に対する不忠実、このようなものが入り乱れている頭には、この大芝居の忠臣蔵もおもしろいはずはない。しかし芝居のようなざわざわしている所がいちばん『忘れる』に適している。」
その翌日の記事には、
「きのう芝居から帰りに、そばやしるこを食い過ぎたため胃のぐあいが悪い。学校を休む事にきめる。弟も休んでいる。絵をかいて暮らした。夜は末広亭《すえひろてい》へ雨がどしどし降るのに出かける。かなり大きな薄暗い小屋に二三人しか客が見えない。語る人も聞く人もさびしい。帰りはまたそばやで酒を飲んだ。」
心のさびしさが不養生をさせ、その結果がさびしさを増していたのである。
四十三年一月下旬に父の春田居士《しゅんでんこじ》が死んだ。その年の三月から亮《りょう》は学校へ出るのを全くやめて、あてもなく総州《そうしゅう》へんを旅行したりしていたらしいが、いよいよ神経衰弱がひどくなって、とうとう四月に国へ帰ってしまった。前に言ったように四十四年に再び引きずられるように上京して、私の近所の下宿から学校へ通《かよ》っていたが、翌年にそれでもどうにか卒業した。
「……ことしで、はや、三度学校をしくじって、今度やっと末席で卒業する事ができた。しかし卒業したのはやはりうれしかった。そして神田《かんだ》の西洋料理でやった謝恩会へも出た。しかし黙ってすみのほうへ引っ込んでいた。」こんな事が「どうなりゆくか」と題した日記のノートの最後のページに書いてある。それでこの帳面は終わっているのである。卒業はともかくも亮《りょう》にとっても一つの一大転機であった。
この世の中で最劣等の人間のごとく自分を感じていた亮は、彼を教えていた教授がたの目には決してそうばかりとは見えなかった。ある先生などは特に彼の頭のいい事を確かに認めていたらしい。それで卒業席次がいちばん下のほうであったにかかわらず、先生の推挙によってT県のF町の農学校の教諭として赴任することとなった。そして数年前に結婚して郷里に残してあった妻と、そこに始めて自分の家庭をもつようになった。
かの地に行ってからの生活については私はあまり多くを知らない。しかしそこでの亮《りょう》はだいたいにおいて幸福であったらしく私には思われる。
交際という事には全く慣れず、あらゆる実務という事に経験もなく趣味もなかった亮の赴任当座は、ずいぶんいろいろ困る事が多かったろうという事は想像するに難くない。おそらくあらゆる失敗を重ね、それについてあらゆる苦痛をなめたろうと想像される。「自己の頭の間違い多きを恐れて、ますます間違いを生ず」という文句が入学式のあった日の日記にあるのも、そのへんの消息を語っているように見える。しかし格別の大失態というほどの事もなくて、後には教頭や舎監も勤めているのを見ると、そういう地位にでもどうにか適応するだけのものはやはり備えていたものと見える。亮の子供の時からの外見だけで彼を判断していた老人などは、そういう役目の勤まるのをむしろ不思議に感じていたらしい。
いつだったか、かの地からよこした手紙に、次のような意味の事があった。
今までは、何物にもぶつかるという事なしに、遠くからガラスの障子越しにながめるばかりで、それでいろんな事を空想しては恐ろしがってばかりいたが、今日ではもういやでも物にぶつからなければならない。そうなると空想をするだけの余裕はなくなる。そして存外勇気が出て来る。
またこんな事もあった。「うまく物事をやろうというような気の出るのがいちばん困る。」
卒業就職の後ともかくも神経衰弱は大部分|癒《い》えたようであった。ただかの地の冬の冷湿の気候が弱いからだにこたえはしまいかと心配していたが、割合にしばらくは無事であった。
かの地ではおいおい趣味の上の友だちができて、その人たちと寄り合って外国文学の輪講会をやったりしていたようである。絵もいろいろかいていたらしい。ある時はたんねんに集めていた切り抜き版画などの展覧会をやったり、とにかく相当に自分の趣味を満足させるだけの環境はあったらしい。静かな田舎《いなか》で地味な教師をして、トルストイやドストエフスキーやロマン・ローランを読んだりセザンヌや親鸞《しんらん》の研究をしたり、生徒に化学などを授けると同時に図画を教えたり、時には知人の肖像をかいてやったりするような生活は、おそらく亮《りょう》が昔から望んでいた理想によほど近いものではなかったかと思う。前に出した「どうなりゆくか」の中にも「単純な仕事に、他の事は考えるひまなく、忙しく働いた後、湯にでもはいってゆったりして、本でも読むか、紅茶でも飲みながら、好きな絵でも見るような生活がやってみたい」とあるが、この望みはいくらか遂げられたのではないかと思われる。
セザンヌの好きであった彼のそのころの日記にこんな事がある。「セザンヌの絵のような境地に至りたいと思いながら、今までその内容すなわちそれまでに至る努力を考えなかった。神にすべてをまかせて、安心して、自己の真を打ち出して、運命を直視し、苦しみ悲しみながら進もう。そしてシンプルな、落ち着いた、セザンヌの絵のような境地に達しよう。」またこんな事もある。「トルストイは人生の帰趣を決めてしまおうとした。そこに不自然があり無理がある。そこに芝居気が生ずる。」
学校の職務について苦労のない事はなかった。学校にありがちな大小の事件のために彼の健康には荷の勝った辛労もあったようである。そういう時にどんな態度でどんな処置をとったかは全く私にはわからないが、ただ日記の断片のようなものなどから判断してみると、いつでもおしまいには自分の誠意や熱心や愛の足りない事を悔やんでいたようである。
生徒にはそれでも相当に厳格であったらしい。舎監としてもかなりきびしいほうであったらしい。スリッパをはいて見回る、その足音を生徒がけむったがってスリッパというあだ名をつけていたそうである。生徒はまた亮《りょう》に「たつのおとし子」というあだ名をつけていると自分で話していた。これは彼の顔つきややせてひょろ長く、猫背《ねこぜ》を丸くしている格好などから名づけたものであろう。実際そういえばそうらしい様子もあった。しかし彼の風貌《ふうぼう》にはどことなく心の奥底のやさしみと美しさが現われていたように思う。生徒のこのあだ名から私はどうしても単純な憎悪や嫌忌《けんき》を読み取る事ができない。
友だちといっしょに酒を飲んだりする時には、どうかすると元気がよくて、いつになく高談放語したり、郷里の昔の武士の歌った俗謡をどなったりする事もあったそうであるが、これはどうもやはり亮《りょう》のおもな本性ではなかったように私には思われる。ただもう少し健康で、もう少し体力が盛んであったら、こういう方面がもう少し平生にも現われたかもそれはわからない。
弱いからだにとうとう不治の肺患が食い込んでしまった。東京の医師に診《み》てもらうために出て来て私のうちで数日滞在してから、任地近くの海岸へしばらく療養に行っていたが、どうもはかばかしくないので、学校を休職して郷里の浜べに二年余り暮らした。天気がいいと油絵のスケッチに出たりしていたようである。ほんとうに突っ込んでかきたいと思っても、ついめんどうでいいかげんにごまかしてしまうのが残念だというような事を手紙の端に書いてあったりした。そのころのスケッチ
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