亮は一年おくれた。その時M氏に贈った句に「登る露散る露秋の別れかな」というのがある。
高等学校では私もよく食った凱旋饅頭《がいせんまんじゅう》を五十も食って、あとでビットル散をなめたりしていたらしい。
大学は農科へ入学して、農芸化学を修めていたが、そのうちにはげしい神経衰弱にかかって学校を休学した。それきりどうしても再び出ようとは言わなかったのを、私が留学から帰った時に無理にすすめて出る事にはなったが、それでもやはり学校は欠席がちであった。
そのころは私はもう青年ではなかった。空想から現実の世界へ踏み込んで、功名心にかられて懸命に努力し、あくせくしていた。そうして亮《りょう》の学校をなまける心持ちには共鳴し難くなっていた。私の目から見るとただ自分の心の中へ中へと引っ込んで行く亮を、どうでも引き立てて外側へ向け直してやる事が自分の務めのように思っていたので、機会あるごとに口をすくして説法のような事を聞かせた。
その当時の亮《りょう》の日記のようなものを見ていると、こんな一節がある。
「明治四十四年十一月二十八日――昨日|青山《あおやま》の宿から本郷《ほんごう》の下宿へ移った。朝押し入れから蒲団《ふとん》や行李《こうり》を引き出して荷造りをしている間にも、宿を移ったとて私はどうなるだろうと思う。叔父《おじ》さんや弟は、宿でも変えて気分を新たにしたら学校へ行けるような心持ちになるだろうという。私は学校のほうへ一歩も向かう勇気はもうない。いやだいやだと思う。室《へや》いっぱいに取り散らした荷物を見るとやはり国へ帰りたい念が強く起こる。今宿へ払う金が十円ばかりある。これで、きょう思い切って帰ろうとしきりに思う。しかし国へ帰っても自分のうちへ帰るのではない――兄と嫂《あによめ》の家――苦しい事は同じだ。私は自分をどうする事もできない。しかし私はこうしていても、ついには田舎《いなか》で貧しくとも静かに生活するという、私が自分を省みてのただ一つの望みが満たさるる時が来る事はないように思われる。この望みが、もう全く活力のない私を自分に捨てかねる原因になっている。こんな望みもなくなってほしい。前途が全く暗くなってしまったら、とこんな事を思ってポカンとしていると、弟が来てくれた。そしてただもうなんという事なしに移ってしまった。」
「夜弟と叔父さん所へ行く。こいつはもうだめだと思い
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