ってからいっしょに市外へ遠乗りに行って、帰りに亮《りょう》が落ちて前歯を一本折った事もあった。
そのころの亮の写生帳が保存されているのを今取り寄せて見ると、何一つ思い出の種でないものはない。第一ページには十七字集と題して、幼稚な、しかし美しい夢に満ちた俳句が、紫鉛筆や普通の鉛筆でかき並べてあって、その終わりの余白には当時はやった不折流《ふせつりゅう》のカットがかいてある。また自刻の印章――ボート形の内に竪琴《たてごと》と星を刻したの――が押してある。自分の家の門や庭の芭蕉《ばしょう》などの精密な写生があるかと思うと、裏田んぼの印象風景などもある。「くいし(山名)へ行くにはどっちですか」「神社」「アツマコート」「小女山道」「昼飯」「牛を追う翁《おきな》」「みかん」「いこいつつ水の流れをながめおれば、せきれい鳴いて日暮れんとす」など、とり止めもない遠足の途中のいたずら書きらしいものもある。
亮のかいた絵に私が題句をかいたり、亮の句に私が生意気な評のようなものをかいたりしたのもある。私はそのころ熊本《くまもと》で夏目先生に句を見てもらっていた。そして帰省すると甥《おい》に句を作らせて自分が先生のつもりでいたものらしい。とにかくそのころの亮と私の生活はない交ぜたもののようになっていた事がこの帳面を見てもよくわかる。
裏坪や台所などのスケッチを見ると、当時のB家のさまがいろいろ思い出されて、そのころからわずかに二十年の間に相次いでなくなった五人の親しい人々の面影を、ついそこらに見るような気がする。
私が大学へ移ったのと入り代わりぐらいに、亮《りょう》は熊本《くまもと》の高等学校へはいった。同じ写生帳の後半にはそこの寄宿舎や、日奈久温泉《ひなぐおんせん》、三角港《みすみこう》、小天《おあま》の湯《ゆ》などの小景がある。日奈久の温泉宿で川上眉山《かわかみびざん》著「鳰《にお》の浮巣《うきす》」というのを読んだ事などがスケッチの絵からわかる。浴場の絵には女の裸体がある。また紋付きの羽織《はおり》で、書机に向かって鉢巻《はちま》きをしている絵の上に「アーウルサイ、モー落第してもかまん、遊ぶ遊ぶ」とかいたものもある。
亮が後年までほとんど唯一の親友として許し合っていたM氏との交遊の跡も同じ帳面の絵からわかる。
中学時代からいっしょであったのが、高校の入学試験でM氏は通過し、
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