寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)朧《おぼろ》の門脇に捨てた貝殻に

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「門<困」、第4水準2−91−56]《しきい》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)遠く切れ/\に消え入る唄の声
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 始めてこの浜へ来たのは春も山吹の花が垣根に散る夕であった。浜へ汽船が着いても宿引きの人は来ぬ。独り荷物をかついで魚臭い漁師町を通り抜け、教わった通り防波堤に沿うて二町ばかりの宿の裏門を、やっとくぐった時、朧《おぼろ》の門脇に捨てた貝殻に、この山吹が乱れていた。翌朝見ると、山吹の垣の後ろは桑畑で、中に木蓮《もくれん》が二、三株美しく咲いていた。それも散って葉が茂って夏が来た。
 宿はもと料理屋であったのを、改めて宿屋にしたそうで、二階の大広間と云うのは土地不相応に大きいものである。自分は病気療養のためしばらく滞在する積《つも》りだから、階下の七番と札のついた小さい室を借りていた。ちょっとした庭を控えて、庭と桑畑との境の船板塀には、宿の三毛《みけ》が来てよく昼眠《ひるね》をする。風が吹けば塀外の柳が靡《なび》く。二階に客のない時は大広間の真中へ椅子を持出して、三十疊を一人で占領しながら海を見晴らす。右には染谷《そめや》の岬、左には野井《のい》の岬、沖には鴻島《こうのしま》が朝晩に変った色彩を見せる。三時頃からはもう漁船が帰り始める。黒潮に洗われるこの浦の波の色は濃く紺青《こんじょう》を染め出して、夕日にかがやく白帆と共に、強い生々《いきいき》とした眺めである。これは美しいが、夜の欸乃《あいだい》は侘しい。訳もなしに身に沁む。此処《ここ》に来た当座は耳に馴れぬ風の夜の波音に目が醒めて、遠く切れ/\に消え入る唄の声を侘しがったが馴れれば苦にもならぬ。宿の者も心安くなってみれば商売気離れた親切もあって嬉しい。雨が降って浜へも出られぬ夜は、帳場の茶話に呼ばれて、時には宿泊人届の一枚も手伝ってやる事もある。宿の主人は六十余りの女であった。昼は大抵沖へ釣りに出るので、店の事は料理人兼番頭の辰さんに一任しているらしい。沖から帰ると、獲物を焼いて三匹の猫に御馳走をしてやる。猫は三毛と黒と玉。夜中に婆さんが目を醒した時、一匹でも足りないと、家中を呼んで歩くため、客の迷惑する事も時にはある。この婆さんから色々の客の内輪《うちわ》の話も聞かされた。盗賊が紳商に化けて泊っていた時の話、県庁の役人が漁師と同腹になって不正を働いた一条など、大方はこんな話を問わず語りに話した。中には哀れな話もあった。数年前の夏、二階に泊っていた若い美しい人の妻の、肺で死んだ臨終のさまなど、小説などで読めば陳腐な事も、こうして聞けば涙が催される。浦の雨夜の茶話は今も心に残っているが、それよりも、婆さんの潮風に黒ずんだ顔よりも、垣の山吹よりも深く心に沁み込んで忘られぬものが一つある。
 宿の裏門を出て土堤《どて》へ上り、右に折れると松原のはずれに一際《ひときわ》大きい黒松が、潮風に吹き曲げられた梢を垂れて、土堤下の藁屋根に幾歳の落葉を積んでいる。その松の根に小屋のようなものが一つある。柱は竹を堀り立てたばかり、屋根は骨ばかりの障子に荒筵《あらむしろ》をかけたままで、人の住むとも思われぬが、内を覗いてみると、船板を並べた上に、破れ蒲団がころがっている。蒲団と云えば蒲団、古綿の板と云えばそうである。小屋のすぐ前に屋台店のようなものが出来ていて、それによごれた叺《かます》を並べ、馬の餌にするような芋の切れ端しや、砂埃《すなぼこり》に色の変った駄菓子が少しばかり、ビール罎《びん》の口のとれたのに夏菊などさしたのが一方に立ててある。店の軒には、青や赤の短冊に、歌か俳句か書き散らしたのが、隙間もなく下がって風にあおられている。こう云う不思議な店へこんな物を買いに来る人があるかと怪しんだが、実際そう云う御客は一度も見た事がなかった。それにもかかわらず店はいつでも飾られていてビール罎の花の枯れている事はなかった。
 誰れにも訳のわからぬこの店には、心の知られぬ熊さんが居る。
 自分は浜辺へ出るのに、いつもこの店の前から土堤を下りて行くから熊さんとは毎日のように顔を合せる。土用の日ざしが狭い土堤いっぱいに涼しい松の影をこしらえて飽き足らず、下の蕃藷畑《ばんしょばたけ》に這いかかろうとする処に大きな丸い捨石があって、熊さんのためには好い安楽椅子になっている。もう五十を越えているらしい。一体に逞《たくま》しい骨骼《こっかく》で顔はいつも銅のように光っている。頭はむさ苦しく延び煤《すす》けて
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