岩間を走る波は白い鬣《たてがみ》を振り乱して狂う銀毛の獅子のようである。暗緑色に濁った濤《なみ》は砂浜を洗うて打ち上がった藻草をもみ砕こうとする。夥《おびただ》しく上がった海月《くらげ》が五色の真砂《まさご》の上に光っているのは美しい。
 寛《くつろ》げた寝衣《ねまき》の胸に吹き入るしぶきに身顫《みぶる》いをしてふと台場の方を見ると、波打際《なみうちぎわ》にしゃがんでいる人影が潮霧の中にぼんやり見える。熊さんだと一目で知れた。小倉《こくら》の服に柿色の股引《ももひき》は外にはない。よべの嵐に吹き寄せられた板片木片を拾い集めているのである。自分は行くともなく其方《そっち》へ歩み寄った。いつもの通りの銅色《あかがねいろ》の顔をして無心に藻草の中をあさっている。顔には憂愁の影も見えぬ。自分が近寄ったのも気が付かぬか、一心に拾っては砂浜の高みへ投げ上げている。脚元近く迫る潮先も知らぬ顔で、時々頭からかぶる波のしぶきを拭おうともせぬ。
 何処の浦辺からともなく波に漂うて打上がった木片板片の過去の歴史は波の彼方に葬られて、ここに果敢《はか》ない末を見せている。人の知らぬ熊さんの半生は頼みにならぬ人の心から忘られてしまった。遠くもない墓の※[#「門<困」、第4水準2−91−56]《しきい》に流木を拾うているこのあわれな姿はひしと心に刻まれた。
 壮大なこの場の自然の光景を背景に、この無心の熊さんを置いて見た刹那《せつな》に自分の心に湧いた感じは筆にもかけず詞《ことば》にも表わされぬ。 
 宿へ帰ったら女中の八重が室の掃除をしていた。「熊公の御家はつぶれて仕舞ったよ」と云ったら、寝衣を畳みながら「マア可哀相にあの人も御かみさんの居た頃はあんなでもなかったんですけれど」と何か身につまされでもしたようにしみじみと云った。自分はそれに答えず縁側の柱に凭れたまま、嵐も名残と吹き散る白雲の空をぼんやり眺めていた。
[#地から1字上げ](明治三十九年十月『ホトトギス』)



底本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店
   1996(平成8)年12月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:佳代子
2003年12月14日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング