夕凪と夕風
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)夕凪《ゆうなぎ》は郷里高知の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](昭和九年八月『週刊朝日』)

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)もし私が 〔be^te noire〕 だったら
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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 夕凪《ゆうなぎ》は郷里高知の名物の一つである。しかしこの名物は実は他国にも方々にあって、特に瀬戸内海沿岸にこれが著しいようである。そうして国々で○○の夕凪、□□の夕凪といって他の名物を自慢するように自慢にしているらしい。普通は特有な好いものを自慢にするのだが、たまにはあまりよくない特色を自慢する場合もあるのである。
 アインシュタインが有名になりかけたころ、方々の国々で、彼は自分の国の出身であるといっていい争ったことがあった。そのときアインシュタインが「もし私が 〔be^te noire〕 だったらこんなことはあるまい」といって皮肉に笑ったそうである。なるほど弓削道鏡《ゆげのどうきょう》が自分の同郷出身だといって自慢する人はあまりないかもしれないが、しかし石川五右衛門の同郷者だといってシニカルな自慢を振り廻す人はあるかもしれない。
 それはとにかく、暑い国の夏の夕凪は、その肉体的効果から見ればたしかに、ベート・ノアルであるが、しかしそれが季節的自然現象であるだけにかなりに多彩な詩的題材を豊富に包蔵していることも事実である。
 夕凪は夏の日の正常な天気のときにのみ典型的に現われる。午後の海軟風《かいなんぷう》(土佐ではマゼという)が衰えてやがて無風状態になると、気温は実際下がり始めていても人の感じる暑さは次第に増して来る。空気がゼラチンか何かのように凝固したという気がする。その凝固した空気の中から絞り出されるように油蝉の声が降りそそぐ。そのくせ世間が一体に妙にしんとして静かに眠っているようにも思われる。じっとしていると気がちがいそうな鬱陶《うっとう》しさである。この圧迫するような感じを救うためには猿股《さるまた》一つになって井戸水を汲み上げて庭樹などにいっぱいに打水をするといい。葉末から滴《したた》り落ちる露がこの死んだような自然に一脈生動の気を通わせるのである。ひきがえるが這出《はいだ》して来るのもこの大きな単調を破るに十分である。夜の十二時にもならなければなかなか陸風がそよぎはじめない。室内の燈火が庭樹の打水の余瀝《よれき》に映っているのが少しも動かない。そういう晩には空の星の光までじっとして瞬《またた》きをしないような気がする。そうして庭の樹立の上に聳《そび》えた旧城の一角に測候所の赤い信号燈が見えると、それで故郷の夏の夕凪の詩が完成するのである。
 そういう晩によく遠い沖の海鳴りを聞いた。海抜二百メートルくらいの山脈をへだてて三里もさきの海浜を轟かす土用波の音が山を越えて響いてくるのである。その重苦しい何かしら凶事を予感させるような単調な音も、夕凪の夜の詩には割愛し難い象徴的景物である。
 東京という土地には正常の意味での夕凪というものが存在しない。その代りに現れる夏の夕べの涼風は実に帝都随一の名物であると思われるのに、それを自慢する江戸子は少ないようである。東京で夕凪の起る日は大抵異常な天候の場合で、その意味で例外である。高知や広島で夕風が例外であると同様である。
 どうして高知や瀬戸内海地方で夏の夕凪が著しく、東京で夏の夕風が発達しているか、その理由を明らかにしたいと思って十余年前にK君と共同で研究してみたことがあった。それには日本の沿岸の数箇所の測候所における毎日毎時の風の観測の結果を統計的に調べて、各地における風の日変化の特徴を検査してみたのである。その結果を綜合してみると、それらの各地の風は大体二つの因子の組合せによって成り立っていると見ることが出来る。その一つの因子というのは、季節季節でその地方一帯を支配している地方的季節風と名づくべきもので、これは一日中恒同なものと考える。第二の因子というのは海陸の対立によって規定され、従って一日二十四時間を週期として規則正しく週期的に変化する風でいわゆる海陸軟風に相当するものである。そこで、実際の風はこの二つの因子を代表する二つのヴェクトルの矢の合成によって得られる一本の矢に相当する。
 高知は毎時観測の材料がなくて調べなかったが、広島や大阪では、前記の地方的季節風が比較的弱くて、その代りに海陸風がかなり著しく発達している、そうして夕方から夜へかけては前者が後者と相殺《そうさい》する、そのために夕凪が
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