北氷洋の氷の割れる音
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)満州《まんしゅう》問題

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|艘《そう》

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(例)[#地から3字上げ](昭和八年一月、鉄塔)
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 一九三二年の夏の間に、シベリアの北の氷海を一|艘《そう》のあまり大きくない汽船が一隊の科学者の探険隊を載せて、時々行く手をふさぐ氷盤を押し割りながら東へ東へと航海していた。しかしその氷の割れる音は科学を尊重するはずの日本へ少しも聞こえなかった。満州《まんしゅう》問題、五・一五事件、バラバラ・ミステリーなどの騒然たる雑音はわれわれの耳を聾《ろう》していたのである。ところが十一月になってスクリューを失った一艘の薄ぎたない船が漁船に引かれて横浜《よこはま》へ入港した。船の名はシビリアコフ号、これがソビエト政府の北氷洋学術研究所所属の科学者数名を載せて北氷洋をひと夏に乗り切ったものであるということが新聞で報ぜられた。それでもわれわれはまだかの有名なバラバラ事件の解決以上の興味を刺激されることもなくて実にのんきにぼんやりしていたのである。
 O氏の主催で工業クラブに開かれた茶の会で探険隊員に紹介されてはじめて自分のぼんやりした頭の頂上へソビエト国の科学的活動に関する第一印象の釘《くぎ》を打ち込まれたわけである。
 隊長シュミット氏は一行中で最も偉大なる体躯《たいく》の持ち主であって、こういう黒髪|黒髯《こくぜん》の人には珍しい碧眼《へきがん》に深海の色をたたえていた。学術部長のウィーゼ博士は物静かで真摯《しんし》ないかにも北欧人らしい好紳士で流暢《りゅうちょう》なドイツ語を話した。この人からいろいろ学術上の仕事の話を聞いた後に「日光《にっこう》は見たか」と聞いたら「否」、「芝居は」と聞いたら「否」と答えたきりで黙ってしまった。海流の研究の結果から氷洋の中に未見の島の存在を予報したこの人には「日光」や「カブキ」は問題にならなかった。地球磁力や気象の観測を受け持って来たただ一人の婦人部員某夫人は、男のように短く切りつめた断髪で、青い着物を着ていた。どこか小鳥のような感じのする人で仏語のほかは話さなかったようである。そのほかの若い生物学者や地質学者やみんなまじめで上品で気持ちのいい人たちであった。日本のマルキシストなどとはだいぶちがった感じのする人たちであった。映画監督のシュネイデロフ氏はだれも格好な話し相手がなくて、すみのほうの椅子《いす》に押し黙って所在なさそうに見えた。日本の学者たちの、この人にはおそらくはなはだ珍しかったであろうと思われる風貌《ふうぼう》を彼一流のシネマの目で観察していたことであろう。
 その翌日また別の席でこれらの人たちと晩餐《ばんさん》を共にしてシュミット、ウィーゼ両氏の簡単な講演を聞く機会を得た。
 北極をめぐる諸科学国が互いに協力して同時的に気象学的ならびに一般地球物理学的観測を行なういわゆるインターナショナル・ポーラー・イヤーに際会してソビエト政府は都合八組の観測隊を北氷洋に派遣した。その中の数隊は極北の島々にそれぞれの観測所を設けて地磁気や気象の観測をしたり、あるいは火薬の爆発によって人工地震波を作りそれを地震計で観測した結果から氷盤の厚さを測定したり、あるいはまた近ごろ学界の問題になっている宇宙線《コスミックレー》に連関して空気の電離状態を研究したりすることになっている。またチェリュスキン岬《みさき》とレナ河口とにも観測所を設け、後者の一部は永久的のものにする。一方ではレニングラードからランゲル島へかけベーリング海近くまでも飛行機を飛ばし空中写真測量で北シベリアいったいの地図を作る事になっている。なおそのほかに探険船シビリアコフ号を艤装《ぎそう》して途中でいろいろの観測研究をすると同時にただひと夏に北氷洋を乗り切るという最初のレコードを作ろうという計画を立て、それが立派に成功したのである。この船の航海中に遭遇したいろいろな困難のエピソードについてはすでに新聞雑誌にかなり詳しく紹介されたからここに繰り返すまでもない。しかしこの成功が決して偶然の僥倖《ぎょうこう》によるものではなくてちゃんとした科学的な基礎の上に立つものであるということを知る人が少ないようである。ウィーゼ氏の話によると数年来かの国の気象学者たちは、気圧その他の気象学的要素の配置から夏期における北氷洋上の氷の分布状況を予報することを研究し、それがだいぶうまく的中するようになった。そのおかげで今度の航海がたいへんに楽であったというのである。ことしの大規模の観測所増設によって、今後北氷洋の状況がますます明らかになればなるほど今後の航海はますます楽にな
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