れほど著しい不幸には会わなかった。もっとも四十二の暮から自分で病気に罹《かか》って今でもまだ全快しない。この病気のために生じた色々な困難や不愉快な事がないではなかったが、しかしそれは厄年ではなくても不断に私につきまとっているものとあまり変らない程度のものであった。それでともかくも生命に別条がなくて今日までは過ぎて来た。
 それで結局これから私はどうしたらいいのだろう。

 厄年の峠を越えようとして私は人並に過去の半生涯を振り返って見ている。もう昼過ぎた午後の太陽の光に照らされた過去を眺めている、そして人並に愧《は》じたり悔やんだり惜しんだりしている。「有った事は有ったのだ」と幾百万人の繰返した言葉をさらに繰返している。
 過去というものは本当にどうする事も出来ないものだろうか。
 私の過去を自分だけは知っていると思っていたが、それは嘘らしい。現在を知らない私に過去が分るはずはない。原因があって結果があると思っていたが、それも誤りらしい。結果が起らなくてどこに原因があるだろう。重力があって天体が運行して林檎《りんご》が落ちるとばかり思っていたがこれは逆さまであった。英国の田舎である一つの
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