けははっきり思い出すことが出来る。
 その頃すでに読者から日記や短文の募集をしていた。自分も時に応募していたが、自分の書いた文章が活字になったのは多分それが最初であったと思う。理科大学の二年生で西片町《にしかたまち》に家を持っていたその頃の日記の一節を「牛頓日記」と名づけて出したことがある。牛頓はニュートンと読むのであるが実に妙な名前をつけたものだと思う。もっとも二年生のとき牛頓祭という理科大学学生年中行事の幹事をさせられたので、それが頭にあったためかもしれない。また、短文の方は例えば「赤」とか「旅」とかいう題を出して、それにちなんだ十行か二十行くらいの文章を書かせるのであった。何という題であったか忘れたが、自分が九歳の頃東海道を人力車で西下したときに、自分の乗っていた車の車夫が檜笠《ひのきがさ》を冠っていて、その影が地上に印しながら走って行くのを椎茸《しいたけ》のようだと感じたと見えてその車夫を椎茸と命名したという話を書いた。子規がその後時々自分に「あの椎茸のようなのはもっとないかね」と云ったことを思い出す。あの頃の短文のようなものなども、後に『ホトトギス』の専売になった「写生文」と称するものの胚芽《はいが》の一つとして見ることも出来はしないかという気がする。少なくも自分だけの場合について考えると、ずっと後に『ホトトギス』に書いた小品文などは、この頃の日記や短文の延長に過ぎないと思われる。
 裏絵や図案の募集もあって数回応募した。最初に軒端の廻燈籠《まわりどうろう》と梧桐《あおぎり》に天の河を配した裏絵を出したら幸運にそれが当選した。その次に七夕棚《たなばただな》かなんかを出したら今度は見事に落選した。その後子規に会ったとき「あれはまずい、前のと別人のようだと不折が云っていた」と云われた。その後に冬木立の逆様《さかさま》に映った水面の絵を出したらそれは入選したが「あれはあまり凝《こ》り過ぎてると碧梧桐《へきごどう》が云ったよ」という注意を受けた。
 やはりその頃であったと思うが、子規が熟柿を写生した絵を虚子《きょし》が見て「馬の肛門かと思った」と云った。それを子規がひどく面白がって「しかし本当にそう思ったんだから」ということを繰返し繰返し言い訳のように云うのであった。
 募集した絵をゆっくり一枚一枚点検しながら、不折や虚子や碧梧桐を相手に色々批評したり、また同時に
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