漫画と科学
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)截然《せつぜん》たる
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](大正十年三月『電気と文芸』)
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漫画とは何かという問に対して明確なる定義を下す事は困難であろう。また漫画とそれ以外の絵画との間に截然《せつぜん》たる区劃線を引く事も容易ではない。漫画家自身でもおそらく人によってこれに関する所見を異にするに相違ない。今ここで私がせっかく苦心して定義をこしらえても、それは結局甲某の定義にしかなりそうもない。それで以下に漫画として論ずるものも結局私の頭の中にある漫画というものの概念に過ぎないから、それがどれだけ普遍的であるかは私自身には分らない。
私のいわゆる漫画の対象材料となるものはほとんどすべて人間あるいは人間化されたる非人間である。猿であろうが摺子木《すりこぎ》であろうが、それが純粋な猿や摺子木として取扱われている間は漫画の領域に這入《はい》り得ないように思われる。次にその対象の見方および取扱いの上に如何なる特徴があるかと考えてみると、その対象の形態的ないし心理的の現象の中である特別な部分を抽象してその部分を誇大しあるいは挙揚して表示するというのが一つの顕著な点である。例えば鼻の大きい人の鼻を普通の計測的の大きさの比以上に廓大《かくだい》して描いたり、喜怒の感情の発現を誇張した身振りで示すがごときは、最も月並な慣用手段である。もう少し進んだのになると、鼻や小鼻の曲線のあるデリケートな抑揚をつかまえて、これを少しアクセンチュエートする事によって効果を挙げ、あるいは手足の機微な位置によって複雑な感情を暗示するものもある。猿が馬に乗っているにしてもその姿勢なり態度なりが、乗馬者のある特異な、しかし言葉では云い表わせない点を巧みに表わす事によって、漫画としての価値がきまるように思う。
以上のようなものは、私の考えている漫画の中で最も純粋なものである。そうしてこの種の漫画によって表現された人間の形態並びに精神的の特徴は、一方において特異なものであると同時に他方ではその特徴を共有する一つの集団の普遍性を抽象してその集団の「型」を設定する事になる。こういう対象の取扱い方は実に科学者がその科学的対象を取扱うのと著しく類似したものである。
例えば物理学者があらゆる物体の複雑な運動を観察して、これを求心運動、等加速運動、正弦運動などに分解してその中の一つを抽出し他を捨象する事によって、そこに普遍的な方則を設定する。物理学教科書にある落体運動は日常生活において目撃するあらゆる物体の落下にそのまま適用するものではない。空気の抵抗や、風の横圧や、周囲の物体より起る不定な影響を除去した時に始めて厳密に適用さるべきものである。そしてこれらの第二次的影響の微少なる限り近似的に適用するものである。それでこの種の方則は具体的事象の中から抽象によって取り出された「真」の宣言であって、それが真なるにもかかわらず、実際に日常目撃する現象その物の表示ではない。
優れた観察力をもった漫画家が街路や電車の中で十人十色の世相を見る時には、複雑な箇体が分析されて、その中のある型の普遍的要素が自ずから見出される。そしてその要素だけを抽象し、それを主として表現するために最も有効な手段を選ぶのであろう。その表現の方法は「術」であるかもしれないが、この要素をつかみ出す方法は「学」の方法に近いものである。
科学上の業績は単に分析にのみよって得られるものと考えるのは、有りふれた、しかし大なる誤謬である。少なくも優れた科学者が方則を発見したりする場合には直感の力を借りる事は甚だ多い。そういう場合には論理的の証明や分析はむしろ後から附加されるようなものである。また一方において漫画家の抽象は必ずしも直感のみによるとは考えられない。たとえ無意識にしろ、直感で得た暗示をだどって確かなある物を把握するまでの道筋は確かに一種の分析である。それでこれらの点における両者の精神作用の差違はあっても僅少なものである。
漫画の目的とするところはやはり一種の真である。必ずしも直接な狭義の美ではない。ただそれが真であることによって、そこに間接な広義の美が現われるように思う。科学の目的もただ「真」である。そして科学者にとってはそれが同時に「美」であり得る。
漫画が実物に似ていないにかかわらず真の表現であるという事は、科学上の真というものに対する多数の人々の誤解をとくために適切な例であるように見える。漫画が実物と似ない点において正に実物自身よりも実物に似るというパラドクシカルな言明はそのままに科学上の知識に適用する事が出来る。
ただ科学は主として物質界の現象に関係しているため
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