ロートレークの或る作物をいずれの領分に配していいかを決定するのに迷うのである。ただ極端と極端とを対照する時に、「美」に専らなものと、「真」に忠なるがために狭義の美の境界線の内外に往還するものとの区別を認めて、後者を特に一団として考えるに過ぎないのである。
 他の人間精神の所産物と比較して広義の芸術的科学的ないし功利的の価値を考えてみたときに、特に漫画を低級なものと考えるべき必然な根拠を見出す事は困難である。劣悪な美術と優秀な漫画を比較してみた時には困難を感じさせられる。その感じはちょうどおめでたい新聞小説と恐ろしい罪悪を主題とした傑作とを読み比べる時のそれとよく似たものである。
 私は鳥羽僧正の戯画を見る時に、そこに描かれた動物の群から人間の痴愚をさしつけれれる。北斎漫画を見る時に封建時代の社会の不思議な心理を教えられる。ホガースやドーミエーからは享楽の影に潜む恐ろしさを味わわされる。ハインリヒ・クライの怪奇画からは文明の背後に隠れた災厄の悪魔の呼吸を感じさせられる。バンベリーの「新兵」の絵を見ていれば可笑《おか》しいよりは泣きたくなる。ジャン・ヴェヴェーの「銭投げ」を見れば感情と姿勢の対訳を教えられる。そしてそれらは単に見る人の知識となるばかりでなく、一つ一つの生きた体験になるのである。もし聖賢の教えがわれわれの衣服の表になるものであれば、漫画の作品はその裏地の一片にはなる。前者が健胃剤ならば後者は少なくも下剤ぐらいにはならない事はない。
 漫画と称すべきものの中でいわゆる時事漫画と称するものがある。新聞雑誌に出るのは主としてこれである。これは私の考えている漫画としてはやや純粋を欠くものである。時代と場所の限られたる範囲の興味が高唱されているだけに普遍性を損じやすい傾向がある。ことにそれが作者のある特別な政治的社会的の意見を表明する手段として使用されている場合には、その客観的真実性は著しく限定されて、むしろ一つの標本としての価値に堕落しやすいように思われる。しかしその作者が優れた作者であれば、自然にそこに時代や階級の特性が印象されていると同時に、人間というものに普遍な何物かが記録されない訳には行かないであろう。古来の漫画の名家の作品は正にこれを証明する。
 一般絵画に対する漫画の位置は、文学に対する落語、俳句に対する川柳のそれと似たところがないでもない。本質の上か
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