に、換言すれば人間の能知と切り離された所知者自身の間の交渉に関しているために、科学上の方則は科学者の個性と切り離され、従ってその表現は単義的普遍的なものになっている。これに反して漫画家の対象は人間に関係したものであるために、このような分離が困難になり、表現は十人十種になって作者の個性の香が高くなるのは止むを得ない。しかしあらゆる可能な漫画家を一団として見る時には、各画家を微分とした無限項の和としての積分は渾然たる一つの定まった極限値を有する「真の」一面と考えるに不都合があるだろうか。
科学上の真を言明するために使用する言語や記号は純化され洗煉されて、それぞれ明確な意味をもっている。換言すれば有限な数の言語で説明し尽さるべき性質の概念である。漫画家の言語たる線や点や色はこれに反して多次的な無限の「連続《コンチニウム》」を形成するものである。それで漫画家は言語では到底表わす事の出来ない観念の表現をするための利器を持っている。その利器の使い方の巧拙はその画家の技能を評価する目標の一つになるが、それよりも重大な標準は、それによって表わすべきものの、真の種類や程度にある事は勿論である。科学者がその方則を述べる字句の巧拙や運算の器用不器用は必ずしもその方則の価値と比例しないのと一般であろう。
むしろあまりに悪達者な漫画家の技巧がその内容と反比例を示す場合も少なくないように見える。それは技巧が跳躍して科学的真の圏外に逸出するためである。
こういう意味で私は本当の漫画と低級なポンチあるいはくすぐり画とを区別したい。後者の実例は場末の玩具屋《おもちゃや》の店頭で見られる安絵本のポンチなどがそれである。そこには尊い真は失われて残るものは虚偽と醜陋《しゅうろう》な悪趣味だけである。美しい子供の頭にこういうものの影を宿す事は一つの罪悪であらねばならぬ。
私は滑稽という事がここにいわゆる漫画の本質的条件とは考えていない。もし私の考えているすべての漫画を滑稽であるとすれば、それは畢竟人間の真その物が滑稽な分子を含んでいるという事になるだろうと思う。同時に滑稽というものは極めて真面目な悲痛なものだという結論も生れるだろう。
そうはいうものの私は例えばミレーの田園風俗画とスタンランの漫画との間に或る区別を感じない訳ではない。しかしその二つの世界の限界を定めようとする時にドーミエーやゴヤや
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