病室の花
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)三越《みつこし》へ行ったついでに

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)偶然|丸善《まるぜん》から

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](大正九年五月、アララギ)
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 発病する四五日前、三越《みつこし》へ行ったついでに、ベコニアの小さい鉢《はち》を一つ買って来た。書斎の机の上へ書架と並べて置いて、毎夜電燈の光でながめながら、暇があったらこれも一つ写生しておきたいと思っていたが、つい果たさずに入院するようになった。
 入院の日に妻がいろいろの道具といっしょにこの鉢を持って来た、そして寝台のすぐ横にある大理石を張った薬びん台の上に載せた。灰色の壁と純白な窓掛けとで囲まれたきりで、色彩といえばただ鈍い紅殻塗《べんがらぬ》りの戸棚《とだな》と、寝台の頭部に光る真鍮《しんちゅう》の金具のほかには何もない、陰鬱《いんうつ》に冷たい病室が急にあたたかくにぎやかになった。宝石で作ったような真紅のつぼみとビロードのようにつやのある緑の葉とを、臥《ね》ながら灰色の壁に投射して見ると全く目のさめるように美しかった。
 いつでも思う事ではあるが、いかに精巧をきわめた造花でも、これを天然の花に比べては、到底比較にならぬほど粗雑なものである。いつかアメリカのどこかの博物館で、有名な製作者の造ったというガラスの花を見たが、それも天然の花に比べてはまるで話にならぬほどつまらない、しかもいやな感じのするものであった。このような差別の根原はいったいどこにあるだろう。色彩や形態に関するあらゆる抽象的な概念や言葉を標準にして比較すれば造花と生花の外形上の区別は非常に困難な不得要領なものになってしまう。「一方は死んでいるが他方は生きている」という人があるかもしれない。しかしそれはただ一つの疑問を他の言葉で置き換えたに過ぎない。実際の明白な区別は、やはり両者を顕微鏡で検査してみて始めてわかるのではあるまいか。一方はただ不規則な乾燥したそして簡単な繊維の集合か、あるいは不規則な凹凸《おうとつ》のある無晶体の塊《かたまり》であるのに、他方は複雑に、しかも規則正しい細胞の有機的な団体である。美しいものと、これに似た美しくないものとの差別には、いつでもこのような、人間普通の感覚の範囲外にある微妙な点があるのではあるまいか。人間でも意識の奥に隠れた自己といったようなものが、その人がらの美しさを決定する要素ではあるまいか。こんな事を考えながらベコニアの花をしみじみ見つめていると、薄弱な自分の肉眼の力ですら、花弁の細胞の一つ一つから出る生命の輝きを認めるような気もする。
 入院の翌日A君が菜の花を一束持って来てくれた。適当な花瓶《かびん》がなかったからしばらく金盥《かなだらい》へ入れておいた。室咲きであるせいか、あのひばりの声を思わせるような強い香がなかった。まもなく宅《うち》から持って来た花瓶にそれをさして、室《へや》のすみの洗面台にのせた。同じ日に甥《おい》のNが西洋種の蘭《らん》の鉢《はち》を持って来てくれた。代赭色《たいしゃいろ》の小鉢に盛り上がった水苔《みずごけ》から、青竹箆《あおたけべら》のような厚い幅のある葉が数葉、対称的に左右に広がって、そのまん中に一輪の花がややうなだれて立っている。大部分はただ緑色で、それに濃い紫の刷毛目《はけめ》を引いた花冠は、普通の意味ではあまり美しいものではないが、しかしそのかわりにきわめて品のいい静かに落ち着いた美しさがあった。これを、花やかに美しい、たとえばおとぎ話の王女のようなベコニアと並べて見た時には、ちょうど重々しく沈鬱《ちんうつ》なしかも若く美しい公子でも見るような気がした。花冠の下半にたれた袋のような弁の上にかぶさるようになった一片の弁は、いつか上に向き直って袋の口を開くだろうと思っていたが、とうとういつまでも開かなかった。
 そのうちにT君夫妻がまた大きなベコニアの鉢《はち》を持って来てくれた。それは宅《うち》から持って来たのに比べて数倍大きくみごとなものであった。この花が来てみると今まであったベコニアは急に見すぼらしい見る影もないものになってしまった。宅のは花の色ももう実際にいくらか薄くなったのだろう、これに比べて見ると今度のは全く目のさめるようにあざやかであった。古いほうのは室《へや》のすみの洗面台の上にやってしまって、この新しいベコニアを枕《まくら》もとに飽かずながめた。しかし不思議な事には蘭《らん》のさびしい花はこれに比べてもちっとも見劣りがしないのみか、かえって今までよりも強くこの花の特徴を主張するかと思われた。古い小さいベコニアはそれでも捨てるのは惜しかった。自分は時
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