病院風景
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)やや煤《すす》けた白い壁
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三|間《げん》とはなれぬ
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](昭和八年四月『文学青年』)
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東京××大学医学部附属病院、整形外科病室第N号室。薄暗い廊下のドアを開けて、室へはいると世の中が明るい。南向きの高い四つの窓から、東京の空の光がいっぱいに流れ込む。やや煤《すす》けた白い壁。婦人雑誌の巻頭挿画らしい色刷の絵が一枚貼ってある。ベッドが八つ。それがいろいろ様式がちがう。窓の下に一列のスチームヒーター。色々の手拭やタオルの洗濯したのがその上に干し並べてある。それらがみんな吸えるだけの熱量を吸って温かそうにふくれ上がっている。
コキコキ。コキコキ。コキコキコキッ。
ブリキを火箸でたたくような音が、こういうリズムで、アレグレットのテンポで、単調に繰返される。兎唇《みつくち》の手術のために入院している幼児の枕元の薬瓶台の上で、おもちゃのピエローがブリキの太鼓を叩いている。
ブルルル。ブルルル。ブルブルブルッ。
窓の下から三|間《げん》とはなれぬ往来で、森田屋の病院御用自動車が爆鳴する。小豆色《あずきいろ》のセーターを着た助手が、水道のホーズから村山貯水池の水を惜気《おしげ》もなく注いで、寝台自動車に冷たい行水を使わせている。流れた水が、灰色のアスファルトの道路に黒くくっきりと雲の絵をかいている。
またある日。
窓の下の森田屋の前で、運転手と助手とが羽根をついている。十くらいの女の子も二人でついている。子供の方が大人より上手である。若い丸髷《まるまげ》の下町式マダムが弁慶縞の上っぱりで、和装令嬢式近代娘を相手に、あでやかにつややかに活躍している。
またある日。
糸のような雨が白い空から降る。右手の車庫のトタン屋根に雀が二羽、一羽がちょんちょんと横飛びをして他の一羽に近よる。ミーラヤ、ラドナーヤとでも囀《さえず》っているのか。相手は逃げて向うの電柱の頂へ止まる。追いかけてその下の電線へ止まる。頂上のはじっとして動かない。下のは絶えず右に左にからだを振り動かしている。いつまでも動かしている。
その電柱の辺に、学生時代のクラスメートTMの家がある。彼は今はW大学の数学の先生である。三十年前にはよくTMと一緒に本郷、神田、下谷《したや》と連立《つれだ》って歩いた。壱岐殿坂《いきどのざか》教会で海老名弾正《えびなだんじょう》の説教を聞いた。池《いけ》の端《はた》のミルクホールで物質とエネルギーと神とを論じた。
TMの家の前が加賀様の盲長屋《めくらながや》である。震災に焼けなかったお蔭で、ぼろぼろにはなったが、昔の姿の名残を止めている。ここの屋根の下に賄《まかな》いの小川の食堂があって、谷中《やなか》のお寺に下宿していた学生時代に、時々昼食を食いに行った。オムレツと焼玉子の合の子のようなものが、メニューの中にあった。「味つき」と「味なし」と二通りあった。「オイ、味なし」。「味つき」。そういうどら声があちらこちらに聞こえた。今は雑使婦か何かの宿舎になっているらしい。そのボロボロの長屋に柿色や萌黄の蛇《じゃ》の目《め》の傘が出入りしている。
またある日。
蒲団を積んだ手荷車が盲長屋の裏を向うへ、ゆるやかな坂を向うへ上って行く。貸夜具屋が病院からの電話で持込むところと想定してみる。突当りを右へ廻れば病院の門である。しかし車は突当りまで行って止った。そこの曲り角の処で荷物をほごしている。曲り角には家はないはずである。分からない。どう考えてもこの蒲団の行方は分からない。余所の蒲団の行先は分からない。
この角の向側に牛肉屋の豊国《とよくに》がある。学生の頃の最大のラキジュリーは豊国の牛鍋《ぎゅうなべ》であった。色々の集会もここであった。天文関係の人が寄ったときにその頃発見された新星ノヴァ・ペルセイの話が出た。新星と豊国がその時から結合した。磁力測量に使う磁石棒の長さをミクロンまで精密に測ろうとして骨折った頃にもよく豊国の牛肉を食った。磁石と豊国とがその時から結合した。
解剖学のO教授もよくここの昼食を食いに来ていた。ドイツ生れのO夫人がちゃんと時刻をたがえずやって来て一つの鍋のロースを日本の箸ではさんでいた。三十余年前にはこれが珍しかった。
ある夜。
岩崎の森の梢に松坂屋の照明が見える。寒い暗い都会霧の中に夢のワルハラのごとく光の宮を浮上がらせる。
上野の動物園の森で一度に鳴き出す色々の鳥類のけたたましい声が聞こえる。
廊下から中央階段を降りようとする途中で窓越しに東を見ると、地下鉄ビルの照明が見える。サッポ
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