しかしこの天井を取払うと鶴はたちまち冲天《ちゅうてん》に舞上がる。すると亀はもうとても追付く望みはないとばかりやけくそになって、呑めや唄えで下界のどん底に止まる。その天井を取払ったのが老子の教えである」というのである。何のことだかちっとも分からない。しかし、この分からない話を聞いたとき、何となく孔子の教えよりは老子の教えの方が段ちがいに上等で本当のものではないかという疑いを起したのは事実であった。富士山の上に天井があるのは嘘だろうと思ったのであった。
二十年の学校生活に暇乞《いとまごい》をしてから以来、何かの機会に『老子』というものも一遍は覗《のぞ》いてみたいと思い立ったことは何度もあった。その度ごとに本屋の書架から手頃らしいと思われる註釈本を物色しては買って来て読みかけるのであるが、第一本文が無闇《むやみ》に六《むつ》かしい上にその註釈なるものが、どれも大抵は何となく黴《かび》臭い雰囲気の中を手捜りで連れて行かれるような感じのするものであった。それらの書物を通して見た老子は妙にじじむさいばかりか、何となく偽善者らしい勿体《もったい》ぶった顔をしていて、どうも親しみを感ずる訳には行か
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